宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
 天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。 33回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。 この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。
 現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
     名古屋市教育委員会

石燈籠

都々逸発祥之地碑

裁断橋址碑

裁断橋跡説明

地藏菩薩

旧裁断橋桁石

復元された裁断橋

姥堂
 延文3年9月(1358)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。 本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。 旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
 昭和20年3月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
 尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。 昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され 「おんばこさん」 と呼ばれ親しまれてきた。 現在の本尊は平成5年5月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。

裁断橋
 文献では永正6年(1509)「熱田講式」 に名が見られるのが初見とされている。 姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正15年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。 大正15年出版の 「橋と塔」 浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
 昭和28年3月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。 しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成4年3月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
 圓福寺では、金助の母が 「後の世のまた後まで」 と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、 母の銘文の拓本を取り平成5年5月此処に架設した。

姥堂・裁断橋説明

大正時代の姥堂と裁断橋

姥堂に掛かる姥堂の扁額