悲運の武将
尾張の織田氏と駿河の今川氏が敵対していた戦国時代。戸部城主の戸部新左衛門は今川義元の忠実な家臣で武勇に優れ最前線で善戦していました。手を焼いた織田信長は何とか新左衛門を亡き者にしようと画策し、新左衛門の筆跡を家来に真似させ、信長に内通している旨の偽書を書かせました。そして家臣(森蘭丸の父三左衛門)を商人に仕立て偽書を持たせ駿河に送り込みました。偽書を信じた義元は烈火の如く怒り、新左衛門を呼び寄せ、途中吉田(現在の豊橋)で有無を言わさず切腹を命じたのです。弘治3年(1557)5月1日、新左衛門は無念にも非業の死を遂げました。今川義元が桶狭間の戦いに没した3年前の事でこの謀略が無ければ義元の上洛があり得たかもしれないと言われています。
人質交換事件
岡崎より駿河へ人質として送られる途中の松平竹千代(後の徳川家康)が略奪され尾張の織田方へ送られました。その頃、信長の兄信広が安城の戦いで今川・松平連合軍に敗れ捕虜となっていました。天文18年(1549)新左衛門の仲介によって笠寺観音境内で竹千代と信広の人質交換が円滑に執り行われたと伝えられています。
戸部蛙
勇猛なことで知られる新左衛門は、自分の前を横切るものを「無礼者」と切り捨てることがあったそうですが、飛んで逃げる蛙は切ることが出来なかったという言い伝えがあり、これに因んで「戸部蛙」という郷土玩具が作られるようになりました。
戸部新左衛門政直公霊位
明治7年、子孫にあたる美濃国本巣郡軽海村の戸部新吾氏が新左衛門の霊を慰めるため戸部城跡に墓碑を建立しました。昭和4年の区画整理で戸部町三丁目に移され、金原鈴夫氏書の戸部城址の碑が設置されました。そして有志(戸部保存会)により毎年命日に戸部家の子孫を招いて供養祭が実施されてきました。平成18年、新左衛門政直候没後450周年慰霊祭が営まれ、この霊位は平成28年ここ富部神社境内に移築されました。
戸部新左衛門政直公解説
戸部神社本殿重要文化財指定記念碑
境内社の秋葉社
境内社の金毘羅社
ほととぎす 泣いてすぐるや 戸部の城
小林橘川句碑
戸部新左衛門政直霊位碑
戸部城址碑
明治天皇御駐蹕之處碑
富部神社鳥居
手水舎
富部神社拝殿
富部龍王社 ・ 八王子社と居森社の合祀社
国の重要文化財に指定されている富部神社本殿
拝殿に掛かる富部神社の扁額