淡々句碑

人気のない早朝の有松宿並み

有松や 家の中なる ふぢのは那

淡々説明

 姓は松本氏、幼名は熊之助、のち伝七、大阪西横堀に生まれ、二十歳元禄初年(1688)のころ江戸に出て芭蕉から呂国の号を受けた。
 芭蕉没後元禄7年(1694)不角について因角と改めしばらく江戸に滞在した。
 宝永の頃に江戸を去り京都に戻り門戸を張りかなりの名声を博した。
 晩年大阪に移住し、江戸堀に聴槿庵を結び百用朝水と号し、堺にも移ったが、再び大阪に戻り、身終わるまで島の内鰻谷に居住した。
 宝暦11年(1761)11月2日「朝霜や筇(つえ)で描きし富士の山」の一句を辞世として88歳で没した。