源太夫社(上知我麻神社)と東海道解説

 ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。 この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790)そのままである。
 四面には、次のように刻まれている。
東  北 さやつしま
    同 みのち   道
南  寛政二庚戌年
西  東 江戸かいとう
    北 なこやきそ  道
北  南 京いせ七里の渡し
    是より北あつた御本社貮丁 道
 なお、この三叉路の東北隅には、これより32年前(宝暦8年)に建立された道標があった。 標示は、「京いせ七里の渡し」 以外はこれと同じである。 戦災で破損したが復元され、10mほど東の北側にある。  
   名古屋市教育委員会

 尾張名所図絵にも描かれている江戸時代の 「上知我麻神社」。 熱田神宮の摂社で、江戸時代には 「源太夫」 とも呼ばれ 「知恵の文殊」 様としても知られています。
 江戸時代のここ 「源太夫社」 前は、東海道と美濃路の分岐点ともなり、往来する多くの人々で賑わっていました。
 ・ 北へ行くと 「熱田神宮・名古屋城下」
 ・ 南へ行くと 「七里の渡し(桑名)」 へ至ります。
 「源太夫社」 は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地にあった 「ほうろく地蔵」 が祀られました。
 場所を変えながらも当時から残る 「道標」 が、在りし日の賑わいを今に伝えています。

道標 「北」

道標 「西」

道標解説