天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂-呂久-美江寺-川渡-加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、13を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭8人、助務7人が置かれていた。
その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだと云われている。
文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折、船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて
「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」 と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和4年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小簾紅園が建設され、昭和45年(1970)には巣南町指定の史蹟となった。
この地呂久の渡船場は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。
昭和45年(1970)呂久渡船場碑建立。
(瑞穂市)
金紋先箱を先頭に、警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が蜿蜒(えんえん)と続いた。
公武合体のために仁孝天皇の第8皇女和宮が徳川14代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された時のようすは想像を絶するものであった。
惜しまじな 君と民との為ならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
と悲壮な御決意をされた宮は、文久元年(1861)10月20日京都を出発され、同10月26日瑞穂市呂久の呂久川(現在の揖斐川)を御座船で御渡りになられた。その時、対岸の馬淵孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みになった。これを舷に立てさせられ、玉簾(たますだれ)の中からあかずに御覧遊ばされ、
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と御感慨をお詠いになられた。
この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に和宮遺跡を保存したいという気運があがり、昭和の初め当時の郡上郡長、本巣郡南部の村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされた。
昭和4年(1929)4月その名もゆかしい 「小簾紅園」 が見事に完成し、除幕式が立派に行われた。
その後、毎年春と秋の2回、宮の遺徳をしのび例祭が行われている。
昭和51年(1976)10月には、皇女和宮100年祭が秩父宮妃殿下の御来臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御隣席を得て盛大に挙行された。
(瑞穂市)
呂久の渡し呂久渡船場跡説明
小簾紅園(和宮遺跡)説明
小簾紅園モニュメント
清流揖川呂久津 嘗是和宮駐輦屯
悲痛挺身救国難 哀歌一首泣郷民
漢文歌碑
揖斐川呂久渡船場跡碑
和宮御遺蹟碑
和宮歌碑
歌碑脇に建つ 「徳川18代御宗家お手植え」 碑
和宮歌碑
和宮歌碑解説碑
落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ