鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。位置は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ川下にありました。
天正20年(1592)、岐阜城主織田秀信は鏡島の(馬渕)与左衛門に、新町を造ることを命じ、ここ以外での舟荷の陸揚げを禁じました。分流し水量が少なく川瀬の関係で荷を積んだ舟がそれ以上遡るのが難しく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜城下町の外港として整備し、自らの支配下にしようとしたのです。
鏡島湊の権益は、関ヶ原の合戦(1600)後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中山道として公道化すると交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、町並みは長く伸び発展しました。
しかし、加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下近くで荷揚げされるようになりましたが、鏡島湊の特権は、完全には崩されることがなく、江戸時代を通じ守られました。
湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代の後半になると、その役割を終えました。このように長く当地方発展を支えた湊と先人を讃え後世に伝承をするために、ここに湊の案内板の建設をしました。
(岐阜市教育委員会ほか)
鏡島(かがしま)湊説明