創建年代不詳、往古の郡辺神社と云う。
 大化の改新前久努国あり、印幡足尼を国造となす。国造は世々に久努に住す。為に国造の遺霊を郡辺村に祀り祭神となす。927年完成した延喜式神名帳に 「遠江国山名郡式内郡辺神社」 と所載す。
 後世神社は原野谷川の大洪水にて宝物古文書等全てを流失。社は高部村に漂着し村人により厚く祀られ、明治34年(1901)渋垂神社に合祀さる。流失年代不詳。以来当神社の社名は世々に於いて変り久努神社、賀茂神社に偲ぶ事が出来る。
 徳川時代は朱印高七石、明治6年(1873)村社に列格し、昭和20年(1945)宗教法人 「七ッ森神社」 の認証を受け静岡県13等級社となる。平成5年3月放火により社殿を焼失す。社殿は同年10月再建したるものなり。

 七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士・高力猿猴庵が天明6年(1786)に、東海道を自ら旅して記した 「東街便覧図略」 に描かれています。その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。
 この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治できずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
 神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺に久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。

拝殿に掛かる正一位七森稲荷大明神の扁額

七ツ森稲荷神社拝殿

境内社の七ツ森稲荷神社

御祭神は天穂日命

御祭神は久努国造

樹回り9mのスダジイの巨木

七ツ森神社鳥居

七ツ森神社由緒

七ツ森神社由緒

境内社の大日神社

七ツ森神社拝殿