古戦場木原畷碑

木原権現と刻まれた享保2年(1717)の常夜燈

御神木のクスノキ

関ヶ原合戦の祈願のため訪れた際に腰かけたという

古戦場木原畷

許禰神社由緒

神橋と神門

許禰神社拝殿

拝殿内

(前略)
 木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。 許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
 木原権現社の神主を代々つとめた木原家には、「木原権現由来記」 という全長17mもある巻物が残されています。 由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。 天災に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。

 元亀3年(1572)秋、武田信玄は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。
 信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道を西進してここ木原附近に布陣しました。これに対峙する徳川家康の家臣・内藤信成は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが、「小原畷の戦い」です。
 その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりを務めた本多忠勝の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています。

許禰神社鳥居

厳島神社

徳川家康公の腰掛石

平和50年を六蛙(迎える)

境内社の稲荷神社

境内社の八幡宮・須賀神社

天白神社・白山神社・天満宮などの境内社

手水舎