初代歌川広重が得意としていた低視線の風景画を背景に、三代歌川豊国が巡礼に向かう母子を描いています。
二人とも抜け参りなのでしょうか、旅の途中、金品を無心する柄杓を持ち、母親は菅笠に 「同行二人」 「繁栄村」 墨書し、 着物の上にうわっぱりを着て
「(西国)三拾三番巡禮」 と記されたおいずいを羽おっています。 東海道は、武士や商人、役人、僧侶のほか、伊勢参りをはじめ多くの巡礼者の通る道でもありました。
主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。 「信長公記」
には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」 と記され、 慶長9年(1604)には徳川秀忠が 「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」
と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが 「徳川実紀」 に記されています。 江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、
江戸時代の面影を今に伝えています。
また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。 入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。
これは曹洞宗の寺院 「可睡斎」 への道標である。
応永年間(1394~1428)道元の法孫・如仲天誾和尚が草庵を結び、後東陽軒と称したのが可睡斎の始まりで、江戸時代、徳川家康の帰依を得て、駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司の職を与えられ、寺号を可睡斎と改めた。
文政11年(1828)の油山寺道標
是より可睡三尺坊道
従是油山道
双筆五十三次 袋井
東海道松並木解説
東海道松並木