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東海道   (袋井~磐田)


平成29年3月7日(火)  ☀|☁   袋井~磐田  11.0㎞
昨年(平成28年)5月2日~5日に歩いて以来の東海道である。本日は、東京を6時33分に出発し、袋井駅には8時25分の到着であるため、街道周辺の神社仏閣を見ながら進むと見付宿を過ぎた辺りで夕刻になると思われる。昨年の続きは、許禰(こね)神社の西側にある長命寺からのスタートとなる。

長命寺 駕籠型のゴミ集積所 木原説明 須賀神社
許禰神社の西隣にある那智山長命寺は、天文元年(1532)本寺海蔵寺八世天恵和尚が開いた曹洞宗の寺である。
本尊聖観世音菩薩は紀伊国那智山長命寺より伝来したと言われ、境内には武田勝頼の家臣笹田源吾(篠田源五)の供養塔が建っている。
長命寺から街道に出ると、県道413号線に合流する手前右手に駕籠型のゴミ集積所があり、表面に木原大念仏の写真と解説が貼られている。長命寺にも解説が有ったが、笹田源吾の霊を鎮めるために行われた供養祭が、木原大念仏の始まりと伝えられている。
ここには、東海道道標 「←見附宿・木原・袋井宿→」 が建っている。
旧道と県道413号線の合流地点に木原の説明板が建っている。
木原は、元亀3年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られている。また、武田勝頼軍の斥候笹田源吾に由来する 「木原念仏」(市指定無形文化財)の発祥の地でもあります。(以下略)
県道413号線に合流して間もなく西木橋を渡り、西原交差点を越えた左手に須賀神社がある。
須賀神社は嘉禄元年(1225)の創建で、元字南海道にあったが、明治7年(1874)に六所神社の社地から遷座された。
境内には、市指定天然記念物の大楠(推定樹齢500年)のほか、境内社の八幡社がある。

全海寺 三ケ野橋 名残松 旧東海道松並木
須賀神社を出ると直ぐ右手に曹洞宗の廣福山全海寺がある。現在、全海寺の本堂は修復中で更地になっている。
境内入口の地蔵堂には、六地蔵尊と子育地蔵尊が祀られており、水屋の先に阿弥陀堂がある。
全海寺の先で太田川に架かる三ケ野橋を渡る。太田川は、静岡県周智郡森町北部に源を発し、磐田市、袋井市を南流して、遠州灘に流れ込んでいる。 太田川に架かる三ケ野橋を渡り、渡り詰め左手の階段から旧道に降りると一本の名残松がある。 一本の名残松の先で十字路を渡ると、左手に旧東海道松並木解説と東海道道標が建っており、その先両側に数本の松並木が残っている。

明治の道碑 江戸の古道碑 大日堂 見付宿道標
松並木の先の小川を越えると、Y字路左手に平成5年に建てられた明治の道碑があり、碑の建つ左側の坂道を進んで行く。 竹林の坂道を進むと、左手に平成5年に建てられた江戸の古道碑が建っており、ここを左に上って行くと、上り切った所にも江戸の古道碑と 「三ケ野坂の七つ道」 説明板があり、その向かい側に鎌倉の古道碑が建っている。 三ケ野坂の七つ道説明板を東へ40m程進むと段上に大日堂がある。
大日堂は、養老元年(717)に創建され、ご本尊は大日如来である。明治時代に入り寺社制度の改革が行われ、従来の仏堂が存続できなくなり、仏堂は極めて小さな御堂に改められ大正11年(1922)に現在の姿になった。この高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していた。
大日堂を出て三ケ野坂の七つ道説明板の先を進むと左手に 「見付宿へ2.3㎞」 の田原歴史愛好会が建てた道標がある。

鎌田山薬師道道標 立場跡 二子塚古墳 松並木
見付宿道標から街道を150m程進んだ十字路右手角に、弘化4年(1847)の鎌田山薬師道道標が建っている。
道標の建つところは、三ケ野公会堂・老人憩いの家で、ここには車井戸之跡碑と秋葉山常夜燈・明治の道碑が建っている。
鎌田山薬師道道標の直ぐ先右手に立場跡がある。 立場跡の斜向かいの路地を南に入ると、二子塚古墳がある。
ほぼ南北に造られた前方後円墳で、二ツ山古墳とも呼ばれている。現在は、二子塚公園として整備公開されている。
街道を進んで、磐田学園を過ぎると数本の松並木があり、歩道脇に見付の名木松並木標柱と旧東海道松並木 碑が建っている。

榜示杭 金刀比羅神社 行人坂 遠州鈴ヶ森刑場跡
松並木が切れる辺りに、真新しい榜示杭が建っている。
ここは、見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界であった。文化3年(1806)に発行された東海道分間延絵図に御料榜示杭の表示があり、その下に境界を表す記号赤丸印がある。
榜示杭の左側の斜面上に金刀比羅神社がある。寛政元年(1789)大久保新田の絵図には 「山神」 と記されている。その昔、ある漁師が四国金刀比羅様で漁の安全祈願のお礼を戴いた帰りに、遠州灘の沖合でしけに遭い難破し、当時、入海となっていた安久保湾の大久保海岸に標着した金刀比羅様のお札をこの地区の村人が拾い、沖合が見えるこの地に祭られたと言われている。この隣には、烏天狗が祀られた社がある。 榜示杭の先、県道413号線に合流する手前の坂道が行人坂である。
ここには行人(山伏)が多く住んでいて村の祭りごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂と言うようになった。これは井原西鶴が晩年に執筆した 「一目玉鉾」 の見付の処に書かれた文に由来する。
県道413号線に合流した右手の段上に遠州鈴ヶ森刑場跡がある。日本左衛門こと浜島庄兵衛はここで処刑されている。
ここには、妙法無縁之萬霊塔・南無妙法蓮華経題目碑などがある。

御旅所 秋葉山常夜燈 天満地蔵尊 見付天神社元門之跡碑
遠州鈴ヶ森刑場跡を過ぎて間もなく、右手に旧道入口があり、ここに御旅所がある。
御旅所は神輿巡行の際、神輿が休む場所である。ここは三本松御旅所で、見付天神裸祭や祇園祭の神輿がこの御旅所まで渡御し、御神酒の献上や祝詞の奏上が行われる。
また裸祭の道中練りもここで折り返す。
街道を進むと十字路の左手角に大正4年(1915)の秋葉山常夜燈が建っている。
遠州地方では、古くから秋葉信仰が盛んで、各村や町は必ず秋葉灯籠が建てられ、常夜燈として絶やすことなく灯が焚かれた。
常夜燈の脇には、旧三本松碑が建っている。
秋葉山常夜燈のある十字路を右に入ると、右手に天満地蔵尊がある。
小さな地蔵堂には、宝珠を両手に乗せた地蔵菩薩立像が安置されている。
街道に戻って進むと、下り坂に差し掛かる右手の筋に見附天神社元門之跡碑が建っている。
この筋は、江戸時代の見付天神社への表参道であった。

見付宿木戸跡 愛宕神社 阿多古山一里塚跡 観音堂
街道に戻って坂を下り切ったところで左からの道路に合流する。この合流地点に見付宿の木戸跡がある。
合流地点には、木戸跡のモニュメントや大きな見付宿案内板等が建っている。
見付宿を一望できる愛宕山には、愛宕神社が鎮座し、火防の神として人々の信仰を集めた。急な石段を上ると途中に石仏群があり、頂上の拝殿には小さな愛宕神社本殿が安置されている。 愛宕神社拝殿の裏手に阿多古山の一里塚跡がある。
塚上には、ケヤキが根を張り、一里塚碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて62里目の一里塚である。
一里塚跡の奥に進むと江東山徳翁院観音堂がある。
観音堂は、天和年間(1615~23)呑誉禿翁上人によって開山され、本尊十一面千手観世音菩薩立像を祀っている。境内には、弘法大師像・観音菩薩像・地蔵菩薩像がたくさんあり、一角に境内社の稲荷神社がある。

愛宕橋 見付神社 熊野神社 高札場跡
街道に戻って木戸跡の先を進むと愛宕橋の欄干がある。
右手の見付神社方向から流れる川は、暗渠となって道路の下を流れている。
愛宕橋の直ぐ先右手に見付神社参道口があり、矢奈比売神社(見付神社)社標が建っている。
矢奈比売神社は、矢奈比売命・菅原道真を祭神とし、別名、見付天神とも言われている。
境内には、山神社・氷室神社・住吉神社の境内社のほか、伊勢神宮遥拝所などがある。
街道に戻って最初の左手筋を入ると熊野神社がある。
熊野神社は、江戸時代中頃に町内の安全発達を祈願して熊野大権現を勧請して建立された。本殿は小さいながらも権現造で、石の鳥居は中山鳥居で本格的な宮大工の造営と言われている。
街道に戻ると右手のJA遠州中央見付支店の前に高札場跡がある。
高札場跡の隣には、天神の木東坂梅塚がある。

宣光寺 東海道見付宿碑 秋葉燈籠 大見寺
高札場跡を過ぎると右手筋の奥に曹洞宗の珠玉山宣光寺がある。
宣光寺は、慶長元年(1596)の開創で妙厳寺(豊川市)の二十五世大淵龍堂和尚によって開山されたという。
ご本尊は延命地蔵菩薩で、境内には徳川家康寄進の梵鐘・地蔵堂・豊川稲荷神社などがある。
宣光寺を出て今之浦川に架かる中川橋を渡ると、右手筋の大見寺入口に東海道見付宿碑が建っている。 東海道見付宿碑の先を大見寺方向に進むと、右手の宿町自主防災倉庫の前に明治4年(1871)の青銅製の秋葉燈籠が建っている。 秋葉燈籠の直ぐ先に浄土宗の日照山光明院大見寺がある。
大見寺は正和4年(1345)の開基と言われ、境内には中世城館である見付端城の土塁が残る。
また、江戸時代に人力飛行機を発明した浮田幸吉の墓、良純法親王供養塔がある。浮田幸吉の墓は、墓地の何処にあったか確認できなかった。

脇本陣跡 本陣跡 雷三神社 金剛寺
街道に戻って10m程先に進むと、秀英予備校の前に見付宿脇本陣跡がある。
遺構や説明版などは無く、標柱が建っているのみである。
脇本陣跡の先の十字路を渡った右手の立正佼成会磐田の前に見付宿北本陣跡がある。
ここも遺構や説明版などは無く、標柱が建っているのみである。
本陣跡の十字路を左折(南)すると左手に雷三神社がある。
雷三神社の創建年代は不詳であるが、豊雷神社、豊雷賣命神社、生雷命神社の三社が合祀された神社と言われる。拝殿前にある赤い小石を持ち帰り念じると疣(いぼ)が取れると言われ、疣が取れたら川原で赤石を探し再び雷三神社に奉納する慣わしがある。
雷三神社の道路を挟んだ向かい側に曹洞宗の今浦山金剛寺がある。
金剛寺は、応永31年(1424)の開創であり、慶長15年(1610)から元和5年(1619)に中泉代官となった大石十右衛門康正の開基である。
墓所には清水次郎長の兄貴分であった大和田友蔵の墓がある。

国玉神社 旧見付学校 東海道道標 脇本陣藥井門
街道に戻り、本陣跡の先の右手路地を曲がると国玉神社がある。
国玉神社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に 「遠江国淡海国玉神社」 と記載されている。また、古来より遠江の国の総社として崇敬され、国玉神社をお詣りすれば遠江の各神社をお参りしたのと同様とされた。ご祭神は大国主命であり、拝殿前には狛兎が祀られている。
国玉神社に隣接して旧見付学校がある。
旧見付学校は、学制発布後間もない明治8年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎である。
当初は4階建てであったが、明治6年に増築されて今の5階建てとなった。この建物は大正11年(1922)まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用された。
街道に戻ると右手の見付本通り広場の前に東海道道標と見付宿の旧東海道絵図碑が建っている。 東海道道標から30m程先の右手に、旧見付宿脇本陣大三河屋門が保存されている。
大三河屋は、はじめ旅籠屋であったが、文化2年(1805)に脇本陣となった。この門は、二本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。武家や商家の屋敷の門には棟門が使われるが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をした門である。

玄妙寺 慈恩寺 西坂の梅塚 見性寺
脇本陣藥井門の直ぐ先右手に日蓮宗の本立山玄妙寺がある。
玄妙寺は、南北朝時代の元中2年(北朝至徳2年)(1385)日什門流の開祖玄妙阿闇梨日什上人によって建立された。本堂に祀られている日蓮上人像は、江戸時代の元和9年(1624)の作である。
玄妙寺の北側に隣接して臨済宗妙心寺派の慈恩寺がある。
慈恩寺は、室町時代の応永年間(1394-1428)の開創で、一時途絶えていたが、戦国時代の天文年間(1532-55)に中興され、更に江戸時代の寛永11年(1634)に再中興され諸堂が整備された。
街道に戻ると県道44号線に突き当たる手前右手の筋角に西坂の梅塚がある。
一本の梅の木が植えられたこの一角には、西坂の梅塚解説・西坂の梅塚碑・見付宿案内碑がある。
県道44号線を左折すると左手(東側)の住宅地奥に臨済宗の瑞雲山見性寺がある。
見性寺の創建年代等は不詳であるが、境内には不動堂・大師堂のほか、弁財天・芭蕉句碑などがある。
また、見性寺の文化財には、蓮の糸で刺繍・彩色された繍十六羅漢図・密教の修法で用いる青銅の五鈷金剛鈴・不動三尊立像がある。

見付宿木戸跡 西光寺 神明神社 旧道口
街道に戻ると加茂川橋の手前に見付宿の西木戸跡がある。
加茂川に架かる加茂川橋には、木戸跡のモニュメントが建っている。
加茂川橋の右手(西側)に時宗の東福山西光寺がある。
西光寺は、文永2年(1265)真言宗の傾木和尚により創建され、阿弥陀如来を本尊とする。加加茂川を渡って正面に見える表門は、徳川家康が別荘として中泉村に築かせた中泉御殿の表門を移築したものであり、境内には、推定樹齢500年という樟の大木、推定樹齢250年というナギの大木がある。
加茂川交差点で県道413号線を渡ると右手に神明神社がある。
神明神社の創建年代等は不詳であるが、拝殿は平成23年に新築されたようであり、鳥居前には安政4年(1857)の常夜燈が建っている
神明神社を過ぎると緩やかな上り坂となり、左手に旧道がある。
この旧道は150m程先の磐田郵便局のところで再び合流する。

遠江国分寺跡 府八幡宮 西願寺 ジュビロくん
旧道から合流して間もなく右手に遠江国分寺跡がある。
遠江国分寺は昭和26年(1951)に発掘調査がされ、七重塔跡をはじめ主要な伽藍が発見され、 昭和27年に国の特別史跡に指定されている。境内には、国分寺の礎石で造った手水石、薬師堂、観音菩薩などの石造物があり、広い敷地に金堂・石段跡などの遺構が残っている。
遠江国分寺跡の街道を挟んだ向かい側に府八幡宮がある。
府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司であった桜井王が、 国府の守護として勧請したと伝えられている。
境内の建物の多くが、江戸時代に建造されたもので 寛永12年(1635)に建立された随神門(楼門)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿・ 幣殿は磐田市の文化財に指定されている。
府八幡宮を過ぎるとジュビロ―ドと言われる通りを進み、右手のセブンイレブンのある筋を入ると真宗大谷派の弘誓山西願寺がある。
西願寺の創建年代等は不詳であるが、山門は旧中泉御殿の裏門を移築したものである。旧中泉御殿は、徳川家康が浜松城主であった天正12年(1584)に磐田駅南の地域に別荘として建築され、以後薬30年間使用され、寛文年間に廃止された。
ジュビロ―ドを進むと歩道脇にジュビロ磐田のマスコットキャラクターのジュビロくんと通りの向かい側にジュビィちゃんが立っている。
ジュビロくんは静岡県の県鳥 「サンコウチョウ」 をモチーフにジュビロのJリーグ昇格と共に誕生し、ジュビィちゃんはJリーグ昇格10周年というメモリアルイヤーにジュビロくんのガールフレンドとして誕生した。

満徳寺 善導寺大クス 浅間神社 田中神社
ジュビロくんの先の十字路を左に入ると真宗大谷派の光恩山満徳寺がある。
満徳寺は、永禄7年(1564)教裕上人により創建されたといわれる。
境内には、戦後再建された鐘楼門、享和3年(1803)建立の経蔵、文政9年(1826)建立の水屋がある。
街道は満徳寺を出て十字路を西に直進するが、十字路を左に曲がってJR磐田駅前に出ると、ロータリーの中央に大クスが聳えている。
この大クスは、かつてこの地に有った善導寺境内にあったもので、推定樹齢は700年、樹高18.3m、根周は二段に盛り上がり、地面と接する部分で32.9mである。
街道に戻ると直ぐ右手筋の奥に浅間神社がある。浅間神社の創建年代等は不詳である。 街道を進んで小川を渡った先の左手住宅地の路地を入って行くと田中神社がある。
田中神社の創建年代等は不詳であるが、平安時代に書かれた延喜式に名前がある。
享保2年(1735)に旧社地田中森(現中泉御殿場)から遷座したという。

弘法大師堂 東海道道標 くろん坊様 名残松
街道に戻ると右手の中山米店脇の筋入口に弘法大師堂二十五番札所標柱が建っている。
ここを先に進んで行くと小さな大師堂があり、その横に無縫塔(卵塔)などが無造作に並んでいる。
更にその先に小さな社の田町塩釜神社があり、傍らに伏見稲荷神社・大師堂などがある。
街道に戻ると右手の中泉交流センターの前に東海道道標 「中泉」 が建っている。 街道を進んで県道261号線に合流すると左手のフェンスの中に、くろん坊様と呼ばれる黒坊大権現を祀った祠が安置されている。
フェンスには、くろん坊様と大乗院坂界隈の説明が貼ってある。
祝川に架かる一言橋を渡り、その先で寺谷用水路に架かる万能橋を渡ると、左手に名残松がある。

道標 宮之一色一里塚跡 秋葉山常夜燈 松向寺
名残松の直ぐ先の変則十字路の右手筋に道標が建っている。右は 「見附」、左は 「宮之一色一里塚」、道標の奥へ向かう方向には 「一言坂戦跡」 とある。
一言坂戦とは、元亀3年(1572)徳川家康が武田信玄との戦いで、浜松城へ退却する途中一言坂で追いつかれたときの戦いである。
道標から程なく右手に宮之一色一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に復元されたものである。
一里塚跡の先、左手筋の入口角に秋葉山常夜燈が建っている。
この常夜燈は、文政11年(1828)に建てられたもので、竜の彫り物があるので 「竜燈」 とも呼ばれている。風除けに燈籠の周りを板で囲み、上部は明かりが漏れるように格子になっている。
秋葉山常夜燈の筋を左(南)に入ると曹洞宗の神宮山松向寺がある。
松向寺は、元和5年(1619)の創建で、現在の本堂は元禄14年(1701)に建立された。境内には子育地蔵尊・延命地蔵尊などがある。

名残松 ビジネスホテルシージョン
松向寺を出て、豊田川を越えると左手に名残松が数本立っている。
写真は豊田南小学校前に架かる歩道橋から振り返ったものである。
陽はまだ高いが本日の街道歩きは、ここで終了である。
歩道橋を渡った先にビジネスホテルシージョンが建っている。
本日はここで宿泊である。

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