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奥州街道   (宇都宮~氏家


平成30年9月6日(月)   ☀|☁    宇都宮~氏家    19.0㎞
奥州街道は、日本橋を起点として千住宿から白河宿へ至る街道であるが、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と共用の道であり、日光街道歩き(H28)で既に歩いているため、この間は割愛し、宇都宮伝馬町の追分からスタートすることとした。
前日に宇都宮へ入り、早朝から神社仏閣などを巡りながら先に進んでいく。宇都宮宿の先は、白沢宿・氏家宿と続く。

追分標柱 高札場跡 朝日坂 都橋
早朝の大通り(県道10号線)は、車の往来も少なく静かな佇まいである。
大通りの左手筋の清住町通りの角に、日光街道と奥州街道の追分標柱が建っている。
標柱には、「江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。」 と記されている。
追分標柱から100mほど進んだ歩道脇に高札場跡があり、標柱だけが建っている。 街道左手の常陽銀行前の歩道脇に朝日坂標柱が建っている。
この辺りは東に向かって下り坂となっており、標柱には、「この附近は奥州街道に沿った所で、江戸時代には町家が並び、商業の中心地として賑わいをみせた所です。この坂は、西に高く東へなだらかに傾斜し、坂の上には観音堂があり、朝早く陽が射したので朝日坂(旭坂)と呼んでいました。」 などと記されている。
朝日坂を下ると釜川に架かる都橋があり、街道両側に昭和62年(1987)竣工の都橋親柱が建っている。
釜川は宇都宮市内を流れる一級河川で、名前の由来はカマのような形からとも、京都に縁が深い宇都宮氏が鴨川に模して命名したとも言われている。釜川の川沿いは、釜川プロムナードと呼ばれる遊歩道が整備されている。

地下横断歩道 明治天皇行在所跡 オリオン通り 御橋通り
都橋の渡詰めに大通り(県道10号線)を渡るための地下横断道入口がある。
この他に地下横断歩道はいくつかあるが、この地下横断歩道を渡ったところから、東に旧街道が続いている。
旧街道に入って30mほど進んだ左手に、明治天皇行在所向明館跡がある。
細い路地の突き当りに向明児童公園があり、その奥に明治天皇行在所向明館跡碑と由来碑が建っている。
街道に戻って進むと、直ぐ先でオリオン通り商店街のアーケードに突き当たる。
街道は左に折れてこのアーケードの中を進んでいく。
アーケードが途切れた十字路の右手筋は御橋通りで、50mほど入ると名前の由来となった赤い御橋が釜川に架かっており、釜川の畔に若山牧水の歌碑が建っている。
御橋の手前右手には、琴平神社と稲荷神社があり、通りの突き当りには宇都宮城跡がある。

宇都宮城跡 宇都宮城主戸田氏墓所 二荒山神社 日野町通り
御橋から南を見ると通りの突き当りに宇都宮城跡がある。突き当りに見えているのは、宇都宮城本丸の北西部にあった清明台と呼ばれる櫓である。宇都宮城は、平安時代の後期に築かれた館が始まりと言われ、中世には宇都宮氏が500年にわたって城主を務め、戦乱の世を乗り切っている。江戸時代には譜代大名の居城して威容を誇り、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとして有名である。 宇都宮城跡から南西に700mほどの所にある英巌寺児童公園の脇に、宇都宮城主戸田氏の墓所がある。
戸田氏(江戸時代中期から明治維新までの宇都宮城主)の墓は、江戸牛込の松源寺にあったが、明治41年(1908)、松源寺の移転の際、ここ英巌寺に改葬された。
オリオン通りのアーケードが途切れた十字路に戻ると、左手筋奥は二荒山神社である。
二荒山神社は、宇都宮市の中心部にある明神山山頂に鎮座しており、東国を鎮めたという豊城入彦命を主祭神としている。当所の鎮座地は、大通りを挟んだ南側にある摂社下之宮であったというが、承和5年(838)に現在地に遷座した。境内には、神門・神楽殿・明神の井のほか、たくさんの境内社がある。
街道に戻ると十字路の先は、日野町通りが東に延びている。
日野町の起こりは、慶長3年(1598)、蒲生秀行が宇都宮城主になったとき、蒲生氏の出身地である近江国日野(現滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺の跡地に住まわせたことに由来すると言われている。この町は奥州街道に面し、荒物屋・呉服屋・小間物屋などが軒を並べていた。

おしどり塚 宝蔵寺 妙正寺 清巌寺
日野町通りの突き当りを左折して、直ぐ右手の大町通りを枡形に曲がっていくと、右手におしどり塚碑があり、この奥のおしどり塚公園内におしどり塚碑と勤王志士・児島強介誕生の地碑が建っている。 街道に戻って先に進み、突き当りの上河原通りを右折して大通りを15mほど進むと左手に天台宗の光明山宝蔵寺がある。
宝蔵寺は、天安元年(857)に円仁によって創建されたと言われる。鐘楼門に架かる鐘は、およりの鐘と呼ばれ、江戸時代には夕暮れになると、宇都宮城下に鳴らされた。 「おより(御寝り)」 とは 「お休みになる」 の意味である。境内には、阿弥陀如来・普賢菩薩を祀る不動堂がある。
大通りを戻って上河原通りを北に進むと、左手に日蓮宗の長宮山妙正寺がある。
妙正寺は、日蓮上人を開基として宇都宮景綱の姉(妙正尼)が創建した。
境内には、南無妙法蓮華経題目碑がいくつか建っている。
妙正寺の前の清巌寺通りを100mほど入ったところに浄土宗の芳宮山清巌寺がある。
清巌寺は、鎌倉時代初期に宇都宮氏によって建立された寺院を、戦国時代に宇都宮氏の家臣・清原姓芳賀氏が移築して清巌寺としたことに始まる。境内には、呑龍堂・鐘楼のほか子育地蔵尊があり、墓所には宇都宮頼綱の墓などがある。

三峰山神社 幸橋 旧篠原家住宅 興禅寺
街道に戻ると、田川の手前左手に三峰山神社がある。
三峰山神社の創建年代は不詳であるが、門柱に樋爪五郎墓と刻まれ、脇に樋爪氏の墓の解説が建っている。
三峰山神社の先に田川に架かる幸橋がある。田川は、日光市を源流とし、宇都宮市・下野市を流れ、下流で鬼怒川に合流している。
幸橋の欄干には、初市風景・梵天祭・幸橋遠景などのレリーフは設置されている
幸橋を渡ると突き当りに旧篠原家住宅がある。篠原家は、江戸時代後期に奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでおり、現在の旧篠原家住宅は、明治28年(1895)に建てられてものである。
建物は一般公開されており、月曜日を除き午前9時から午後5時まで開館している。
旧篠原家住宅前を左折し、次の今泉町信号十字路を左折すると、右手筋に興禅寺東横丁の道標があり、その奥に臨済宗妙心寺派の神護山興禅寺がある。
興禅寺は、正和3年(1314)に宇都宮氏八代城主・宇都宮貞綱が建立したと言われ、境内には千手観音堂のほか、宇都宮貞綱・宇都宮公綱・奥平家昌などの墓がある。この日は時間的に早すぎたのか山門は閉まっており、境内に入ることは出来なかった。

八坂神社 鳥山道追分 長屋門 宝蓮院
街道に戻って今泉信号交差点の先に進むと、右手に八坂神社がある。
八坂神社は、康平6年(1063)宇都宮城主藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城の際、鬼門の鎮護として奥州街道の出入口にあたる今泉の地に神明宮を創始したのが始まりである。
境内には天満宮のほか、御神池に注いでいる神明水がある。
先に進んで東北新幹線のガードをくぐり、更に700mほど進むと、右手に枝分かれする鳥山道追分がある。
この右に入る鳥山道は、現在の那須鳥山市に向かう道で、かつての鳥山城への道である。
鳥山道追分の直ぐ先で竹林町信号交差点を過ぎると、左手に長屋門の旧家がある。
隣には四脚門を構え、大谷石の蔵がある旧家がある
続いて真直ぐな道の左手に、真言宗智山派の竹林山宝蓮院がある。
宝蓮院の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法大師像のほか、十九夜塔・如意輪観音などの石造物がある。

白山神社(胴塚) 土堂原地蔵堂(首塚) 宇都宮環状道路 水田
街道を500mほど先に進み、宇都宮市立豊郷南小学校を過ぎたところの信号のある右手筋を300mほど東に入ると、白山神社がある。
かつては森だったところに加賀国白山神社より勧請して創建されたという。ここは元和7年(1621)宇都宮城主本多正純が幕府から差し向けられた根来組百人衆に城普請を命じたが、これに従わなかったため全員を処刑し、その胴体を埋めた所と言われており、胴塚(根来塚)とも呼ばれている。
街道に戻って400mほど進んだ岩曽信号交差点の右手に土堂原地蔵堂があり、通称 「首切り地蔵尊」 祀られている。ここは先に寄った胴塚に対応する首塚であり、江戸時代初期の元和7年(1621)、宇都宮城主本多正純が幕府から差し向けられた根来組百人衆に城普請を命じたが、これに従わなかったため全員を処刑した場所で、その首をここに埋めたという。一帯には念佛供養塔・地蔵菩薩などがたくさん安置されている。 先に進むと国道119号線宇都宮環状道路が街道を横切っている。
この道路は、宇都宮市の外縁部を一周する環状道路であり、昭和46年(1971)より25年の歳月をかけて、平成8年(1996)に全線開通した。
宇都宮環状道路を過ぎると、車の往来も幾分少なくなり、水田が広がっているところもある。

馬頭尊碑 並木道 稚児坂 バス停
街道右手にある 「のざわ歯科クリニック」 の隣の民家の大谷石の塀の前に馬頭尊碑が安置されている。 先に進んで海道町交差点を過ぎると、街道の両側に並木が1㎞ほど続く道となる。
並木は、唐カエデ、イチョウ、スギなどで、左手には黄金に実った稲穂が首を垂れている。
1㎞ほど続いた並木道が一旦切れて、再び桜並木となるあたりで稚児坂となる。
稚児坂の名前は、建久7年(1196)鎌倉幕府から初代奥州奉行として伊沢家景が任地へ向かう途次、この地で乳幼児の我が子を亡くしたことに由来するという。
稚児坂の先に分岐があり、左は氏家宇都宮線でさくら9㎞の標識があり、その先で直線の街道がやや右にカーブする辺りに、河内総合福祉センターバス停の建屋がある。
このバス停の脇に 「白澤宿ここは江戸より三十里」 と記された立札が建っている。
この辺りが白沢宿の江戸口になるのであろう。

勝善神 白沢地蔵堂 やげん坂 江戸時代の公衆便所跡
河内総合福祉センターバス停から150mほど先の左手民家前に大正10年(1921)の勝善神が建っている。
勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であり、蒼前神(そうぜんしん)とも書くようである。馬頭観音は馬の冥福・馬の無事を祈ったりすることで全国的に分布するが、勝善神は主に関東・東北地方に分布しているようである。
先に進むと右手の段上に白沢地蔵堂がある。白沢地蔵堂は、先ほど歩いた稚児坂に関係があり、建久7年(1196)鎌倉幕府から初代奥州奉行として伊沢家景が任地へ向かう途次、稚児坂で乳幼児の我が子を亡くしたため、その子供をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てたところである。境内には、首のない六地蔵尊・馬頭観音・五輪塔・南無阿弥陀仏名号碑などの石造物がある。 地蔵堂の前からは下り坂となり、街道左側にやげん坂の解説が建っており、次のように記されている。
この坂は、漢方の薬種を砕く舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」 と呼ばれるようになったと言われている。また慶長14年(1609)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。
やげん坂を少し下ると、右手に江戸時代の公衆便所跡がある。
建物は現在のものであるが、裏に回ると穴と肥桶があり、「白沢宿ここは江戸日本橋から三十里」 の立札と 「とちぎふるさと田園風景百選認定地」 の標柱が建っている。

白沢宿 旅籠「高砂屋」跡 白髭神社 本陣跡
やげん坂を下ってT字路に突き当たり、左折すると水路が流れる白沢宿の町並みが続いている。近世には奥州街道の中央を流れていた水路が、現在は道の両側に移され、道路は宿場町の特徴である鍵型の形状を有しており、その沿道には間口が狭く奥行きの長い近世以来の地割が継承されている。この宿場町の歴史を伝えるため、地元住民は屋号看板や水車の整備などまちづくりに取り組んでおり、今も風情ある景観が続いている。 T字路(枡形)を曲がって直ぐ右手に旧白澤病院がある。ここはかつて旅籠 「高砂屋」 跡があった場所であり、敷地内に明治天皇御休之処碑が建っている。 T字路から100mほど先、左手に白髭神社の鳥居があり、奥の山上に白髭神社がある。
白髭神社の創建年代等は不詳であるが、猿田彦命を祀り、白沢の名前の起源ともいわれる。秋季例大祭(11月23日)に行われる白沢梵天祭りは、五穀豊穣・家内安全を願って 「梵天」 を神社に奉納する。
境内には二十六夜塔・稲荷社のほか、白沢宿七福神の大黒天がある。
街道に戻ると宇都宮東察署白沢駐在所の隣に本陣跡がある。
ここは宇加地家で 「本陣」 の屋号が掲げられており、門脇に白沢宿からの里程標が設置されている。白沢宿は家数71軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠13、人口369人であったという。

明星院 薬師堂 経力稲荷大明神 九郷半橋
本陣跡の直ぐ先、左手に真言宗智山派の龍池山明星院駄都寺がある。
明星院は文明10年(1478)法印長弘和尚により開基となり、奥州街道白沢宿の繁栄と共に歩んできた。その後衰退し明治6年(1873)には、白沢小学校が本堂を仮校舎として 「修身舎」 と称して開校された。境内には観音堂があり、その前に興教大師像・地蔵菩薩半跏像などがある。
街道に戻って進むと、右に折れる枡形道の左手奥に薬師堂がある。
境内には、白沢宿七福神の毘沙門天が祀られ、その右側に宇加地家代々の墓があり、八代までの墓誌が建っている。
枡形に戻ると、突き当りは明治元年(1868)創業の造り酒屋・井上清吉商店で、右手角に経力稲荷大明神が鎮座している。
狭い境内には昭和11年(1936)の狛狐が睨みを利かせている。
経力稲荷大明神の直ぐ先で、九郷半川に架かる九郷半橋を渡っていく。
九郷半川の名前は、九ヶ郷と半郷の田畑を潤したことに由来している。橋の渡詰め左側には、白沢宿立札が建ち、その脇に昭和29年(1954)の馬頭観世音と道祖神が祀られている。
この辺りが白沢宿の白河口(北口)である。

北野神社 長閑な一本道 西鬼怒川橋 白沢の一里塚跡
九郷半橋の渡詰めを右に九郷半川に沿って進むと北野神社がある。
境内には、白沢山車収納庫があり、白沢甲部彫刻屋台が収納されているが、解説板は大部手前に建てられている。また、白沢宿七福神の恵比寿が祀られている。
先に進むと街道の両側に田畑が広がるのどかな一本道となる。 田畑の間の道を進むと、西鬼怒川に架かる西鬼怒川橋がある。
西鬼怒川は、元和6年(1620)に開削された水路であり、坂木用水とも呼ばれ下流で鬼怒川に合流している。この西鬼怒川橋の手前を右に100mほど入ると、「江戸時代の鬼怒川の渡し」 跡がある。
西鬼怒川橋を渡ると、左手に白沢の一里塚跡がある。ここには一里塚跡碑・開田記念碑・白沢宿七福神の福禄寿が建っている。
白河の一里塚は、江戸日本橋から30番目の一里塚であり、かつては鬼怒川の河原にあったという。

白沢宿立札 鬼怒川堤防 鬼怒川の渡し跡 阿久津大橋
先に進むと、新川に架かる橋の袂に白沢宿内の立札が建っている。(振返って撮影)
ここから先に民家はなく、直ぐ先に鬼怒川の堤防が見えている。
鬼怒川の堤防に突き当たり、ここからは堤防の上を進んでいく。 左手に水田を見ながら堤防を進むと、右手に河原に下りる道があり、林を抜けたところに鬼怒川の渡し跡がある。
春から秋までは舟渡しで、冬の渇水期は仮橋で渡り、増水時は川幅が800m以上に及び、しばしば川留めになったという。
この先は迂回路として上流の阿久津大橋を渡っていく。
鬼怒川の渡し跡から堤防に上がって先に進むと鬼怒川に架かる阿久津大橋に出る。
鬼怒川は、日光市の鬼怒沼に源を発し、湯西川・男鹿川・大谷川を合わせ、下流で利根川に合流している。阿久津大橋には歩道が無く、大型車が通ると危険を感じるが、それほど交通量が多いわけではない。

鬼怒川の渡し跡付近 山車庫 道標 与作稲荷神社
阿久津大橋の渡り詰めの右に200m進んだ辺りが、対岸からの渡し場跡付近であり、その堤防下から旧道が復活している。 堤防下の旧道に入って、突き当りを左折すると山車庫が建っている。
ここには安政4年(1857)の白木地彫刻屋台が収蔵されている。
山車庫の先で県道125号線に突き当たると、右角に道標 「与作稲荷0.3㎞」 が建っている。 道標から150mほど先で上阿久津T字路交差点に突き当たり、その正面の小道を入っていくと与作稲荷神社がある。昔、勝山の城地に祀られてあったが、ある時洪水により稲荷神社の小祠が流され、三本杉(現河内町白沢)に留まり、暫くそこに祀られていた。その後、嘉永3年(1850)に東円寺裏に御神体を祀ったと言われている。境内には、塩釜地蔵尊のほか、延享4年(1747)の四百万編供養塔などがある。

船玉神社 浮島地蔵堂 大日堂 高尾神社
街道に戻ってT字路を先に進むと、左手一本目の路地口に 「浮島地蔵・船玉神社」 の道標があり、この路地の突き当りを左に進むと船玉神社がある。
船玉神社は、阿久津河岸の守護神で、船頭の信仰が篤く、本殿は豪華な造りになっている。境内には、金比羅神社のほか4基の常夜燈があり、弘化2年(1845)の常夜燈の台座には 「左江戸道・右奥州道・此方河岸道」 と刻まれている。
T字路を右に進むと浮島地蔵堂がある。
地蔵堂に安置された浮島地蔵尊は、どんな洪水にも流れず浮いてその地にとどまり救済する霊力があると言われ、鬼怒川沿岸の人々に信仰されたという。
境内には、如意輪観音や十九夜塔などがある
街道に戻って進むと、上阿久津歩道橋の手前の右手に大日堂があり、大日如来が祀られている。昔は、洪水除け・嵐除けにご利益があると言われ、河岸の船人や近隣の人々に信仰された。
大日堂の裏の水路を隔てた段上には、正一位稲荷神社がある。
大日堂の前に両部鳥居があり、その先の水路を渡った段上に高尾神社がある。
高尾神社は、水神・玉井護神を祀り、河岸の人々に信仰された。創建年代は不明であるが、明治39年(1906)に焼失した社殿は、延宝6年(1678)の建立といわれ、現在の社殿は明治42年(1909)に再建されたものである。二の鳥居脇に天保11年(1840)の勝善神などの石碑があり、石段上に享保12年(1726)の三の鳥居、寛保3年(1743)の手水石などがある。

将軍地蔵 昌玖寺 勝山城跡 道標
高尾神社脇の上阿久津歩道橋の先は上り坂が続き、右手の大古精機㈱の先に将軍地蔵がある。源義家が奥州征伐に向かう途次、鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めず、宗円法師が念じると将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させた。そこで勝山城を守護する寺院として将軍山地蔵院満願寺を建立したが、戦国時代に焼失してしまった。ここには閻魔堂のほか、地蔵菩薩・如意輪観音などの石造物や天然記念物の公孫樹がある。 将軍地蔵の先の街道は、北関東日立物流サービス㈱の建物で消滅しており、このまま県道125号線を進むと、左手勝山城跡入口に天台宗の修明山弥勒院昌玖寺がある。
昌玖寺の創建年代等は不詳であるが、氏家氏の祈願寺と言わfれている。境内には愛染堂があり、木造寄木の愛染明王坐像が祀られている。
昌玖寺の奥に勝山城跡がある。
勝山城は、建久年間(1190-99)に氏家公頼が築城した氏家氏の城である。南北朝時代に氏家氏が途絶えると、宇都宮氏の傘下にあった芳賀氏が城主となった。その後、慶長2年(1597)に宇都宮氏と共に芳賀氏が改易されると、勝山城は廃城となった。現在は、勝山公園となっており、さくら市ミュージアムがあり、大手口に木橋が復元されている。
勝山城入口の交差点に戻ると、左角に道標が建っている。
道標は、三方向を指し示し 「愛染明王0.1k ・ 将軍地蔵0.4k ・ お伊勢の森0.6k」 と記されている。

お伊勢の森 旧奥州街道踏切 道標 馬頭観音・道標
道標の100mほど先で左折し、直線に延びる道を進んで国道4号線上阿久津バイパスを越えると、左手の道標の先にお伊勢の森がある。
お伊勢の森は、奥州街道を少し離れたところに四角四面に石垣を積んで、その中に伊勢神宮の内宮・外宮とその他の末社を勧請したものが祀られていた。現在は、整備されておらず天照皇大神碑と傍らに手水石・常夜燈があるのみである。
街道に戻って300~400mほど進むと、東北本線が横切っており、旧奥州街道踏切を渡っていく。 旧奥州街道踏切を渡って、更に300~400mほど田園地帯の直線の道を進むと、右手に道標が建っている。
道標には、「←奥州街道道標石・お伊勢の森→」 と記されている。
道標から程なくT字路に突き当たり、右手角に天保9年(1838)の馬頭観音・道標・地蔵菩薩坐像が建っている。
ここは氏家宿の南端であり、奥州街道は鍵の手に曲がり、木戸番所が設けられていた。
なお、ここにある馬頭観音は複製で、実物はこの先にある薬師堂前に保存されている。

薬師堂 千手観音堂 鶏権現 氏家宿本陣跡
鍵の手を左に曲がって50mほど進んだ右手筋を入ると、左手に薬師堂がある。
ここには先ほど鍵の手にあった馬頭観音の実物が安置され、傍らには河原石塔婆と呼ばれる鬼怒川産の河原石を加工して造られた石塔婆が6基保存されている。
街道に戻って進み、氏家交差点の手前の司法書士事務所の脇を右に入ると、伝馬町公民館の奥に千手観音堂がある。
ここは、昔、伯州山成就院千手寺という寺院があったところで、諸説あるが日光の二荒山を開いた勝道上人が彫ったと伝わる千手観音が祀られている。観音堂の脇には、十九夜塔・庚申塔・如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻って氏家交差点を右折すると、五行川手前の左手にある介護老人保健施設の脇に鶏権現がある。
鶏権現は、水分神信仰で清水の湧くところや、水源地などに祀られた水神のことである。「みくまり」 「みわたり」 となり、「にわたり」 から 「にわとり」 と呼ばれ、鶏の字があてられるようになったという。
街道に戻って氏家交差点の先を進むと、左手に平石歯科医院があるが、ここが氏家宿の本陣を勤めた平石六右衛門跡である。

寛方・タゴール公園 氏家宿脇本陣跡 氏家宿脇本陣跡 西導寺
本陣跡の先右手には、寛方・タゴール平和公園がある。
荒井寛方(1878-1945)はここに生まれ、日本画家を目指して巣立った。仏画を志した寛方は、原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールの知遇を受け、日本画の教授としてインドに渡った。
寛方・タゴール平和公園から100mほど先の左手に烏山信用金庫氏家中央支店があるが、ここが氏家宿の脇本陣・石井孫兵衛跡である。 烏山信用金庫氏家中央支店の向いにある村上自動車商会が、もう一軒の脇本陣・村上保助跡である。 直ぐ先の氏家駅東入口交差点の手前、左手筋奥に浄土宗の塩谷山地蔵院西導寺がある。
西導寺は、建久2年(1191)氏家氏の始祖氏家公頼が建立したと伝えられている。現本堂は天明4年(1784)に完成したもので、建造は宮大工15代目長野万右衛門があたり、造営費は本堂作料22両・白米10石・手金1両・造作16両と記録されている。境内には、観音堂・弥勒堂・鐘楼のほか、大型の五輪塔などがある。

つた地蔵尊 光明寺 五行橋 薬王寺
西導寺の西側に回り込むと路地に面してつた地蔵尊がある。
鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京都・鎌倉に次ぐ一大地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の女は長子為家に嫁いでいる。このため定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を造立したと伝えられている。
街道に戻ると氏家駅入口交差点の直ぐ先右手奥に真言宗智山派の霊水山光明寺がある。
光明寺は、応永34年(1427)勝山城主芳賀氏の菩提所として、美女木の地に荒木山普門院光明寺として創建した。その後、戦乱等で火災に遭い、現在の本堂は昭和50年(1975)に再建された。境内にある青銅不動明王坐像は、感満不動尊とも呼ばれ、北関東36不動尊霊場の22番札所となっている。
街道に戻り、直ぐ先の上町交差点を右折して進み、街道を横切る二筋の五行川を五行橋と思案橋で渡っていく。
現在の五行川は、江戸時代に鬼怒川からの開削により作られた 「市の堀用水」 の支流用水を水源としている。
二筋の五行川を渡ると、左手に真言宗智山派の八幡山一乗院薬王寺がある。
薬王寺は、室町時代初期の応永31年(1424)に開基となり、大日如来坐像と観経曼荼羅が、さくら市指定文化財となっている。
現在の本堂は、文政8年(1825)に改築されたもので、境内には薬師堂がある。

村上家 瀧澤家 桜野八幡宮
薬王寺を出て桜野中交差点を渡ると、直ぐ左手に村上家がある。
この村上家の門柱に五十里洪水の水位痕があり、横にその説明が記されている。
村上家に隣接して立派な長屋門を構えた瀧澤家がある。
瀧澤家は、明治期に紡績業などで財を成した旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、那須野原の開拓にも尽力した。本日は休館日で邸内に入れなかったが、街道からは屋根の上に乗った望楼が見えている。
瀧澤家から程なく、左手に桜野八幡宮がある。八幡宮は、室町時代中期に八幡川沿いの字松原に創建され、寛永年間(1624-44)に現在地に遷座した。
現在の姿になったのは江戸時代に入ってからであり、境内には厳島神社・琴平神社・稲荷神社などの境内社がある。本日はここまでとし、氏家駅まで引き返し、駅前のビジネスホテルに」宿泊する。

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