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奥州街道   (氏家~佐久山


平成30年9月7日(金)   ☁   氏家~佐久山    18.0㎞
日の出と共に宿を出て、上町交差点から直線の街道を昨日終えた桜野八幡宮一の鳥居前まで一気に進み、本日の街道歩きのスタートである。東京を出るときの天気予報とは変わり、朝から雨が降りそうな空模様である。氏家宿の先は、喜連川宿、佐久山宿と続く。

ホテル清水荘 十九夜塔 馬頭観音・十九夜塔 今宮神社
昨夜は、氏家駅前のホテル清水荘に宿泊し、日の出と共に出発し、上町交差点から五行川を渡り、昨日終了した桜野八幡宮前まで一気に進んだ。た。 桜野八幡宮一の鳥居から150mほど進むと、左手路地角に明治37年(1904)の十九夜塔が建っている。
傍らには、弘化2年(1845)の二十三夜塔・二十六夜塔がある。
続いて50mほど先の四脚門を構えた旧家の脇に寛政7年(1795)の馬頭観音と十九夜塔が建っている。 先に進んで、桜野交差点で右手から来る氏家バイパス(国道293号線)に合流し、その先の上野交差点を右に入ると右手に今宮神社がある。
今宮神社の創建年代等は不詳であるが、明治5年(1972)村社に列せられ、素戔嗚命を祭神としている。境内には、風化の進んだ2基の石祠があり、鳥居の左手には大正2年(1913)の勝善神と子供を抱いたあ石仏が建っている。

狭間田一里塚跡 薬師堂 喜連川へ4km 水準点・大黒天
街道に戻って上野交差点から20分ほど進むと、右手のファミリーマートの手前の民家入口に一里塚標柱があり、この民家の庭に挟間田一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて32里目の一里塚である。
直ぐ先の松山交差点を右に150mほど入ったところに薬師堂がある。
薬師堂は、手入れがなされておらず、板壁は今にも剥がれ落ちそうになっているが、周囲には一石六地蔵尊・宝暦6年(1756)の百万遍供養塔・南無阿弥陀仏名号碑などがある。
街道に戻ると松山交差点の先に喜連川4㎞の道路標識がある。
直線の道を進むとオミナエシの黄色い花が咲き、一面の水田が広がっている。
先に進むと氏家バイパス(国道293号線)が右に曲がる手前の佐藤自動車整備工場の前に、新旧二体の大黒天があり、古い方の大黒天の台座に明治時代の水準点が刻まれている。
街道は直進して旧弥五郎坂を上っていく。

馬頭観音・二十三夜塔 早乙女坂古戦場跡 早乙女温泉 弥五郎坂頂上
大黒天の先を直進して行くと、やや上り坂が始まるあたりの左手に馬頭観音と寛政5年(1793)の二十三夜塔が建っている。 馬頭観音・二十三夜塔の斜向かいの段上に早乙女坂古戦場跡がある。
ここは天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれている。
ここには鞘堂があり、大小二基の五輪塔が安置されている。
早乙女坂古戦場跡を後に弥五郎坂をどんどん上っていくと、右手に早乙女温泉がある。
不思議に温泉の色が変わるという日帰り専門温泉である。
弥五郎坂を上り詰めると左手はセブンハンドレッドクラブ(ゴルフ場)の入口で、街道はここから下り坂となる。

旧道口 高塩背山の墓 旧道口 愛宕山神社
頂上から200mほど下った右手に奥州街道(古道)の案内板が建つ旧道口がある。
ここから先は舗装はされているが、林の中の道で雨が降り始めた今日の天気では、やや薄暗く気味が悪い。
雨に濡れて苔むした道は、滑りやすいので慎重に進んでいくと、やや下り坂になった右手に高塩背山の墓入口と記された案内板があり、その脇の細い山道に踏み込んで行くと、右手斜面に高塩背山の墓がある。
高塩背山は、本名を高塩正庸といい、さくら市を代表する歌人である。
高塩背山の墓から更に下ってくると、集落に出る手前左手に奥州街道(古道)の案内板が建っている。
古道に入る前にあった案内板と同じ内容のものである。
奥州街道(古道)の案内板の先、右手の墓地の奥に赤い鳥居が見えるのは、愛宕山神社である。
愛宕山神社は、鳥居をくぐった先の墓地前を抜けて、更に山道を登ったところにある。
雨が降り土道が滑るので鳥居先の墓地で引き返したが、墓地の中央に延命地蔵尊を祀る羽黒地蔵堂が鎮座している。

庚申塔 新道合流 地蔵菩薩 愛宕山神社
街道に戻ると、集落に入る手前の段上に庚申塔が4基並んでいる。
文字が判別できるものは、大正9年(1920)の庚申塔・宝暦11年(1761)の巳待供養塔である。
庚申塔の先で、奥州街道(古道)の案内板にあった新道(迂回路)に合流する。
この合流地点に道標 「←桜並木・高塩背山の墓→」 が建っている。
先に進んで行くと一気に開けた田園地帯となり、国道180号線を越えると街道右手に交通安全祈願の地蔵菩薩が建っている。 その先、左手の民家脇に愛宕山神社がある。
新しく造られたもので、恐らく奥州街道(古道)入口にあった愛宕山神社の遥拝所ではないかと思われる。
この愛宕山神社の入口に二十三夜塔が建っている。

勝善神 連城橋 寒竹囲 道路元標
愛宕山神社の直ぐ先でL字路に突き当たり、この左角に勝善神が建っている。
一番大きいのは大正9年(1920)の勝善神で、周囲に小さい3基の勝善神、ほかに馬頭観音・馬力神がある。
L字路を曲がって先に進むと、荒川に架かる連城橋の袂に出る。
この連城橋の袂に寛延元年(1748)の道標 「右江戸道・左下妻道」 が建っている。
荒川は、高原山系釈迦ヶ丘に源を発し、途中、喜連川・内川を合わせ、下流で那珂川に合流している。連城橋は車専用であり、人は連城側道橋で渡っていく。
連城橋を渡って喜連川宿に入ると、左手の大村商店脇を左に入っていくと、寒竹囲いの家が連なっている。
この寒竹囲いは、喜連川公方6代城主茂氏公が、藩士の宅地を囲むのに板塀などでは製作保善が大変なので、笹の密植するのを利用して、これを生垣とすることを奨励したものである。
街道に戻って進むと本町交差点のT字路左手に喜連川道路元標が建っている。

龍光寺 御用堀 旧旅籠山田屋跡 喜連川神社
本町交差点の直ぐ先、右手奥に臨済宗円覚寺派慈雲山龍光寺がある。
龍光寺は、鎌倉時代の武将・足利尊氏が創建したといわれ、喜連川足利氏初代・頼純の法名 「龍光院殿」 が寺の名前になった。
ここは喜連川足利氏歴代藩主の菩提寺で、境内の北端に喜連川藩公歴代の御廟所がある。
街道に戻ると、龍光寺入口の斜向かいの筋角に御用堀の看板があり、この筋を入っていくと清流にコイが泳いでいる御用堀がある。
この掘は、喜連川足利氏第10代熙氏の命で弘化元年(1844)に防火と農業用水確保を目的として整備されたものである。
街道に戻ると、街道右手に 「かぶらぎ時計店」 と 「村上金物店」 が一体となった建物があるが、ここは旧旅籠山田屋徳平跡である。 かぶらぎ時計店の向いに喜連川神社の鳥居があり、この筋奥の段上に喜連川神社がある。
喜連川神社は、永禄6年(1563)に塩谷15代兵部大輔惟朝が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請して創建したと伝えられている。塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか15郷の総鎮守といわれた。参道石段手前には伯耆禰神社があり、社務所前には若山牧水と高塩背山(奥州街道古道に墓がある)の歌碑が並んで建っている。

喜連川城大手門 慈光寺 喜連川宿本陣跡 旧萬屋
街道に戻ると、次の左手筋奥に喜連川城大手門が建っている。
喜連川城は、文治2年(1186)塩谷惟広により築かれたといわれ、その後、400年にわたり喜連川塩谷氏の本拠となった。この大手門は、奥にあるさくら市喜連川庁舎の正面玄関で、平成3年(1911)に復元されたものである。
大手門の奥の喜連川城跡は、お丸山公園として整備されている。
喜連川大手門入口の斜向かいの筋奥に、真言宗智山派の喜連山歓喜院慈光寺がある。慈光寺の創建年代は不明であるが、日誉上人により開山されたと伝えられ、当時は歓喜院と称し、永禄5年(1563)塩谷氏の祈願所となった。その後、天正18年(1590)に喜連川国朝が慈光寺と改称した。本尊は不動明王で別名 「雨乞不動尊」 と呼ばれて、北関東36不動尊霊場第21番札所となっている。 街道に戻ると、直ぐ右手に喜連川街の駅本陣があるが、ここが喜連川宿の本陣跡である。江戸中期には郡司十左衛門・斎藤仁右衛門などが勤めたが、後期には上野太郎平が勤め問屋を兼ねていた。
この建物は、大正15年(1926)に建築された喜連川警察署の建物であり、敷地内に飲用専用の自噴井戸がある。
先の信号十字路を渡った右手に、笹屋呉服店があるが、ここは旧萬屋で創業250年以上の歴史がある呉服商である。

東漸寺 たかしお薬局 専念寺 八竜神社
先に進むと枡形道の右手に時宗の清浄山南光院東漸寺がある。
東漸寺は、天正年間(1573-91)、中興其阿上人天随和尚のとき足利佐兵衛督源頼氏の命により、現在地において再興をはかった。東漸寺は、明治のはじめ悟水校という小学校が置かれたこともあった。境内には、最近整備された鐘楼が建っている。
街道に戻って進むと、程なく右手に屋敷門を構えた 「たかしお薬局」 がある。(振返り撮影)
ここは野口雨情の妻ヒロの実家である。
高塩ヒロは、喜連川の山林地主高塩家に生まれ、明治37年(1904)11月に北茨城磯原の雨情のもとに嫁いだが、大正4年(1915)5月に協議離婚している。
たかしお薬局から150mほど先の左手奥に、浄土宗鎮西派の松林山専念寺がある。
専念寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘安6年(1283)に鋳造された善光寺式阿弥陀如来立像が安置された阿弥陀堂のほか、庚申塔・二十二夜塔・馬頭観音・念佛講供養塔などの石造物がある。
専念寺の山門前の道を北に進んで、三叉路を横断したその奥に八竜神社がある。
八竜神社の創建代等は不詳であるが、水をつかさどる神社であり、境内には大正9年(1920)の庚申塔・明治32年(1899)の石燈籠・石祠などの石造物がある。

道標 旧道口 金竜橋 金鶏山神社
街道に戻ると台町交差点の突き当りの段上に台町集会所があり、その前に道標がある。
この道標は、台町交差点の手前を右折する旧道口にあったもので、享保9年(1724)に建てられ 「左在郷道・右奥州海道」 と刻まれている。
台町交差点手前にを右に折れる旧道口がある。この先は、やや下り坂の道で突き当りを左折して荒川に突き当たる。 旧道の先には、内川(荒川)に架かる金竜橋がある。金竜橋は車専用橋であるため、右に併設された金竜橋側道橋で渡っていく。 金竜橋を渡って県道114号線を先に進むと、右手の段上に金鶏山神社がある。
両部鳥居の前には、文政5年(1822)の金麗川艸碑、大正11年(1922)の甲子記念碑などがあり、鳥居の奥に覆屋に納められた社殿がある。江戸時代は、ここに隣接して金鶏山宗林寺があったが、明治時代初期に廃寺になったという。

男女双体道祖神 上り坂 石塔群 馬頭観音
金鶏山神社の直ぐ先にY字路があり、街道は右手の筋を進んで行くが、この旧道の左手段上に昭和63年(1988)の男女双体道祖神が建っている。
裏面に喜連川町建立、上河戸・田代善康72才・加藤守夫75才作と刻まれている。
旧道は、直ぐ先で再び県道114号線に合流している。
男女双体道祖神を過ぎると、国道114号線は約2㎞にわたり上り坂が続いている。
途中、左手のJAしおのや自然乾燥施設を過ぎた先で分岐があり、旧道は左折して直ぐ右手筋に入るが、養豚場脇を通過するので、そのまま国道114号線を進んだ。
下り坂に入って程なく、右手に馬頭観音・文化10年(1813)の二十三夜塔・昭和55年(1980)の庚申塔・大正9年(1920)の庚申塔が建っている。
先に見えるのは、南和田地区の集落である。
石塔群を過ぎてからは平らな道となり、200mほど進んだ左手に、雑草に埋もれた馬頭観音が2基建っている。

林道開通記念碑 浅間神社 長屋門 分岐
馬頭観音から300mほど先の左手筋に林道開通記念碑が建っている。
石碑には、南和田山谷線と刻まれており、右手には稲田が一面に広がっている。
林道j開通記念碑から程なく、左手の林の奥に浅間神社がある。
参道口に御即位記念上江川村植林地碑が建っている。その先の参道には倒木があったので、それ以上は踏み込まなかった。
浅間神社から600mほど進むと、右手の上江川郵便局の向いに、植栽に隠れた長屋門の旧家がある。 直ぐ先の曾根田T字路交差点を右に進むのが街道である。
道路標識には、直進矢板国道4号、右大田原と記されている。

明治天皇碑・道祖神 宮下橋 合柄橋 源氏ボタルの里
曾根田交差点を右折して100mほどのところに、明治天皇碑と道祖神が建っている。
明治天皇碑は天皇御小休之際御膳水と刻まれ、道祖神は昭和63年の男女双体道祖神である。
直ぐ先で江川に架かる宮下橋を渡っていく。
江川は、矢板市の箒川近くの里山に源を発し、さくら市を南東に流れて、下流で荒川に合流している。
続いて400mほど先で大沢用水に架かる合柄橋(がっからはし)を渡っていく。 合柄橋を渡ると右手筋に源氏ボタルの里と記された看板が建っている。
この看板から500mほど先の農業用水路に毎年、源氏ボタルが自然発生するという。また、この筋の入口に大典記念と刻まれた石碑があり、道標のようであるが文字が判読できない。

明治天皇碑 引田一里塚跡 ほほえみ仏 市境
やや上り坂の道を進み、きつれ川幼稚園を過ぎると、その先の特別養護老人ホーム 「にこんきつれ荘」 の手前の広場入口に史跡明治天皇引田原御小休所址碑、その奥に明治天皇御休輦之處碑が建っている。 街道を進んでいくと左手に大谷石造りの立派な蔵が建つ毛塚家がある。
この敷地内に引田の一里塚跡がある。江戸日本橋から数えて35里目の一里塚跡である。
更に進んでいくと、左手の木の下にほほえみ仏の標柱があり、石仏が三体並んでいる。 ほほえみ仏を過ぎると、さくら市から大田原市へ入っていく。
右手の丘陵部に琵琶池ゴルフ倶楽部でプレーする人の姿が確認できる。

温泉神社 高久宅のツツジ群 道標 庚申塔
先に進んで武藤酒店を過ぎると、右手段上に温泉神社がある。
文治3年(1187)那須湯本の温泉神社の分霊を勧請してお祀りしたという。
直ぐ先のT字路信号交差点の手前右手に高久宅のツツジ群がある。
植栽に隠れた看板によると、与一の里名木選で、いろいろな種類があるが、ヤエヤマツツジは目通り周囲0.3m、樹高5m、推定樹齢200年という。
T字路信号交差点の左角に、赤いポールでガードされた道標が建っている。
道標は楕円の自然石で、その周囲に 「大田原、㐂連川、片岡」 と刻まれている。この道標は明治百年(昭和43年)記念に、佐南老人会によって建てられたものである。
道標の先から県道114号線は、県道48号大田原氏家線となり、右手の琵琶池ゴルフ倶楽部の入口に庚申塔が3基建っている。
周囲は金網に囲まれて入れないが、2基は万延元年(1860)以来合碑・昭和43年(1968)と読み取れる。

和郷碑 角田果樹園 木の股地蔵尊 つぶれ坂
庚申塔を過ぎて程なく、右手の田圃の前に和郷碑と耕地整理記念碑が建っている。
和郷碑は、平成5年(1993)県営圃場整備事業完成記念に建てられたもので、当時の副総理兼外務大臣・渡辺美智雄書である。
また和郷碑の向いの街道筋には、小さな馬頭観音が建っている。
和郷碑の直ぐ先、左手に角田果樹園がある。
この果樹園は、ナシ・トウモロコシなどを扱っているが、中でも直径20㎝を超えるほどの大きさの 「かおり」 というナシは、名前の通り良い香りと甘みのある絶品である。
facebookを立ち上げており、季節のものを見ることが出来る。
角田果樹園を過ぎると、右手の丘上に木の股地蔵尊がある。
地蔵堂には3体の地蔵尊が祀られ、境内には、享保17年(1732)の石燈籠、享保18年(1733)の石塔、頭の無い地蔵尊がある。
木の股地蔵尊を過ぎると、上り坂のつぶれ坂となる。観音坂とも呼ばれているが、かつては今よりも急な坂道で、多くの旅人がつぶれたので、この名が付いたといわれている。

佐久山温泉きみのゆ 旧道口 山の神 観音堂
つぶれ坂を越えると信号十字路があり、ここを斜め左(街道としては直進)に若干上りの道を進むと、左手に作山温泉きみのゆがある。
天然かけ流しのアルカリ性単純温泉で、露天風呂・岩盤浴があり、コテージ1棟に5人定員で25,000円から宿泊できる。
佐久山温泉きみのゆを左手に見ながら、坂を上り詰めると県道48号線に突き当たり、佐久山前坂信号を渡った先に旧道口がある。
lここから佐久山宿に入り、街道は下り坂の道となる。
下り坂に入って間もなく、右手の段上の林奥に山の神がある。
古い社殿は朽ち果てて、新しい石祠が建っている。
街道に戻ると、左手奥に観音堂がある。
観音堂の由緒などは不明であるが、参道には苔むした六地蔵尊・馬頭観音が並び、観音堂の前には念佛供養塔・地蔵菩薩などが安置されている。

虚空蔵堂 県道48号線 大橋 八木澤家
街道に戻って更に下っていくと、右手の丘上に虚空蔵堂がある。
虚空蔵堂の由緒等は不明であるが、参道脇に文化12年(1815)の二十三夜塔があり、上り詰めると覆屋の中に小さな虚空蔵菩薩を祀った小社がある。
ここ辺りが佐久山宿の江戸口で、番屋が置かれていたという。
街道に戻って枡形道を左折すると、その先で佐久山前坂信号で横切った県道48号線に合流する。 県道48号線に合流すると、街道を横切る用水に架かる大橋がある。 大橋を渡ると左手に庵看板を掲げ、屋敷門を構えた八木澤家がある。
庵看板には、「運用膏」 と記され、戦前まで膏薬を製造しており、戊辰戦争のとき薩摩兵が使用したという。

諏訪神社 豊道春海翁生誕之地碑 公衆トイレ 大日堂
八木澤家の直ぐ先、右手の筋奥に諏訪神社がある。
両部鳥居の先に下町公民館があり、この公民館の真裏に社殿がある。
街道に戻ると左手に豊道春海翁生誕之地碑が建っている。
豊道春海は、明治11年(1878)この地に生まれ、6歳で天台宗の僧籍に入り、明治23年(1890)に東京浅草の華特院の住職となった。その後、西川春洞に書を学び、明治から昭和にかけて日本を代表する書家として活躍した。
続いて街道右手に、壁に那須与一が描かれた公衆トイレがある。 
那須与一は、那須資隆の十一男として生まれ、元暦2年(1185)の源氏と平氏の 「屋島の戦い」 で、平氏が立てた扇の的を見事に射落としたことで知られている。十人の兄は平氏に味方したため、那須氏の家督は与一が継ぐことになった。
公衆トイレの左脇の筋を入っていくと、大日如来と木像不動明王を安置した大日堂がある。
大日堂の脇には羽黒三山碑があり、裏には推定樹齢800年のケヤキの大木が立っている。

村上英俊翁誕生之地碑 実相院 枡形道 島崎酒造
街道に戻って先に進むと、大田原佐久山郵便局の隣に、村上英俊翁誕生之地碑が建っている。村上英俊翁は、この地の出身で日本で初めてフランス語を修め何冊もの辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者である。明治18年(1885)には、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与された。ここは本陣井上勘左衛門跡であり、問屋を兼務していた。 佐久山郵便局の直ぐ先、左手筋を入っていくと正面に曹洞宗の月江山慈雲寺実相院がある。実相院は、永享年間(1429-40)福原氏の娘が、この地に尼寺を創建し、実相庵と称したのが始まりという。その後、実相院と改称され、永禄11年(1568)福原家累代の菩提所となった。山門は大田原市指定文化財であり、墓所には福原家累代の墓、大高源吾(赤穂義士)の墓、印南丈作翁の墓などがある。 街道に戻ると直ぐ先で、右にカーブする下り坂と、左に進むY字路となる。街道は右に曲がる枡形道を下っていく。
ここは佐久山宿の白河口にあたる。
Y字路を左に進むと左手に島崎酒造がある。
島崎酒造は、天明元年(1781)近江出身の島崎覚兵衛が創業した銘酒 「友白髪」 の蔵元であり、屋根に 「友白髪」 の看板が掛かっている。
今日は、ここで終了するが、近くに宿泊できる宿がないため、矢板駅までタクシーで出ることにした。

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