現存する木造坐像の中で関東最大級の大きさを誇るこの像は、装身具の文様などから、光明寺の不動明王を鋳造する時に使った鋳型であることがわかります。一般的に鋳造後廃棄されてしまう鋳型を現在まで保存・継承しているのは、鋳造史を考える上で大変貴重です。
 また、壊すことを前提としていたため、廃材などを組み合わせて巧みに製作されているのが特徴です。それを示すように仏像内の支柱からは使用されていない臍穴(ほぞあな)も見つかりました。平成12年の大修理の時には、木と木の継目から墨書も発見されています。この墨書から大きな鋳型を多様な木材で作り上げたことへの難しさが垣間見られます。さらに、頭部、胸部、腹部、前膊部(ぜんはくぶ)、膝前、腕の各部分を分離できるのは、分鋳というパーツごとに鋳造を行うためのものと推測されます。
   (さくら市教育委員会)

氏家町慰霊塔

当時の橋脚

鬼怒川橋梁橋脚の遺構

 勝山城は南北420m、東西370m、鬼怒川の段丘面を天然の要害にした崖端城である。鎌倉末期頃、氏家氏が築き、その後芳賀氏によって強固な防備が完成した。中世下野における宇都宮氏一族の北方防備の拠点であり、戦国時代では那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。だが宇都宮氏が慶長2年(1597)豊臣秀吉の命で改易したのに伴い、あえなく廃城になった。
 明治以降の城跡は、特に黒須家が私財を投じて勝山城周辺の土地を購入したことなど、よく遺存されていた。しかし、戦後の開発の波は勝山にも押し寄せ、文化人らによる啓蒙活動や保存運動が続けられたが、ついには本丸跡も破壊された。
 しかし、これを機に本丸跡は公有地となり、初めて学術調査が行われ、大手口や土塁を復旧し、町指定史跡となった。平成5年(1993)城域内にはミュージアム氏家が開館し、廃城後400年を経て、勝山城は文化の拠点としてよみがえった。

 明治19年(1886)、宇都宮~長久保(さくら市)~矢板駅と続く、日本鉄道会社の鉄道路線が開通し、鬼怒川を渡る橋梁が、国道293号線氏家大橋付近に建設されました。当時の橋脚はレンガ、コンクリート等で造られた直径3mの筒状のものでした。この橋梁は大水で破損して列車が不通になることが多く、多額の修理費用を必要としたため、明治30年、現在の東北本線が建設され路線が変更、氏家駅が開業しました。
 このレンガ積の橋脚は約4㎞下流の阿久津大橋付近の鬼怒川河川敷に残されていたもので、鬼怒川橋梁の橋脚部分と考えられるものです。

勝山城解説

復元された大手口の木橋

勝山城本丸跡

野口雨情詩碑

高原颪解説

さむいはずだよ高原颪(おろし)小雪交りて吹きおろす

 童謡・民謡詩人として名高い野口雨情(明治15年~昭和20)は茨城県磯原(北茨城市)に生まれた。明治38年、喜連川の素封家高塩家の娘ヒロと結婚した雨情は度々氏家駅に降り、喜連川を訪れている。昭和10年1月22日、雨情はヒロの甥高塩三郎らと氏家・石町の平野屋旅館で酒を酌み交わした。その時に揮毫したのがこの民謡詩 「高原颪」 で、原詩は大正14年に発表され、極寒期のこの地方の情景を雨情独特の土俗調でうたっている。

鎌倉時代の宝篋印塔

不動明王坐像解説

不動明王堂

木造不動明王坐像