この銅鐘は、万治3年(1660)に鋳造された旧鐘が火災により損傷したため、今小路町の小牧時敏が施主となり、地元宇都宮の鑄物師である戸室将監藤原元蕃に再鋳指せたものであり、製作年代は寛延4年(1751)である。
この銅鐘の鋳造された18世紀中頃は、梵鐘鋳造の最盛期であり、大部分が量産された中で、本鐘は精巧に鋳造されており、形も端正である。また美しい音色であったので、第二次世界大戦中の供出から免れたと言われている。
この頼綱が「小倉百人一首」の生みの親だったことを知る人は少ない。鎌倉幕府の幕臣だった頼綱が27歳(1208)政争に巻き込まれるのを避けて出家、法然上人の門に入り、法号を実信房蓮生と名乗った。蓮生は和歌に優れ、京都二尊院近くの小倉山麓に山荘を構え、当代一流の文化人と言われた藤原定家と姻戚関係を結んだ。
これが縁で嘉禎元年(1235)蓮生は山荘の障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼、定家が色紙一枚、一枚に天智天皇以来の秀作を一首づつ書いた。これが「小倉百人一首」の原型となり、その後、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えて、補訂してまとめた和歌集が小倉百人一首です。
蓮生の歌は「新勅撰」「続古今」「続拾遺」などの和歌集に収められている。多くの歌人、武将が生まれたのも蓮生の大きな功績です。
建保3年(1215)蓮生は、後の清巌寺となる念仏堂を宿郷村に草創した。此処にある蓮生法師の墓碑の両脇に並んでいる墓は、一族だった芳賀高照(兄)と高継(弟)の墓です。
宇都宮五代城主頼綱の墓(中央)、芳賀高照の墓(右)、芳賀高継の墓(左)
宇都宮五代城主頼綱の墓解説
重要文化財鉄塔婆収蔵庫
鉄塔婆解説
子育地蔵尊
正徳4年(1714)9月清巌寺第9世教円が衆生救済のため創建した地蔵尊であるが、太平洋戦争で供出され、平成7年12月に復元された。
中門
清巌寺山門
山門に掛かる清巌寺の扁額
鐘楼
この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和元年(1312)の8月に、宇都宮八代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したといわれる。塔婆の上には阿弥陀を表す梵字と阿弥陀三尊の浮彫りがあり、下部には90字の願文がある。我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治・経済手的な力ばかりでなく、文化的・宗教的な水準の高さを示している重要な資料である。
(宇都宮市教育委員会)
清巌寺本堂
呑龍殿
本堂に掛かる芳宮山の扁額