文化3年(1806)の街道絵図に村上家の門が描かれている

 享保8年(1723)8月10日、暴風雨により五十里湖〔天和3(1683)年9月1日に起きた日光大地震で男鹿川、湯西川が堰きとめられてできた湖で、現在の新五十里湖より規模が大きかった〕の水位が極限までに上がり、昼過ぎに決壊、「五十里洪水」 が発生しました。

 決壊した湖の濁流は、瞬く間に鬼怒川沿岸の村々を飲み込み、櫻野には 「暮れ六つに」 (午後6時頃)水が押し寄せ、「水高六尺余」 (約1.8m) に達し、甚大な被害となりました。洪水では 「流水は山の如く、川下の村々は家財、田畑は言うに及ばず人馬もろとも流され」 たと伝えられています。

 洪水は大きな爪痕を残し、「夜四つ時」 (午後10時頃) になってようやく引き始めますが、その被害は真岡、二宮まで及び、死者1万2千と下野で最悪の水害となりました。

 この門は約300年前に建てられたもので、門柱に残された水位痕は櫻野村での五十里洪水最高水位を示すものです。村上家では大災害の記憶を後世に伝えるため、門と水位痕を大切に守ってきました。なお、「奥州道中分間延絵図」 〔文化3(1806)年〕 にはこの門が描かれており、江戸時代の櫻野村の姿を伝える貴重な文化財です。

築後300年経つという屋敷門

門柱に五十里洪水の痕跡がある

立派な門を構えた村上家

五十里洪水の水位痕解説