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日光御成道   (玄蕃新田~岩槻


令和4年8月27日(土)   ☁|☀    玄蕃新田~岩槻    12.0㎞
本日は、先週8月15日の続きを歩くこととした。玄蕃新田から先も立ち寄りたいところが多くあるので、出来るだけ早い時間に家を出て、街道に立ったのは午前7時前であった。一面の薄曇で歩きには、ちょうど良い空模様と言ったところである。

鶴巻陸橋(西)交差点 庚申塔 庚申塔 国昌寺
浦和美園駅から国道463号(越谷浦和バイアパス)に出て、東北自動車道の浦和料金所を右手に見て東北自動車道を渡ると、鶴巻陸橋(西)交差点であり、本日の日光御成道のスタート地点である。 スタートして間もなく左手の美園公民館入口筋の角に庚申塔が覆屋に安置されている。この庚申塔は、享保5年(1720)の一面六臂の青面金剛の庚申塔である。 更に600m程先の右手に庚申塔と小さな馬頭観音が建っている。庚申塔は、安永9年(1780)の文字庚申塔と元禄15年(1702)の一面六臂の青面金剛の庚申塔であり、小さな馬頭観音は天明4年(1784〉のものである。 先に進んでさいたま市消防団美園第2分団前の信号交差点を左折して800m程西に進むと、右手に曹洞宗の大崎山国昌寺がある。国昌寺は、天正年間(1573-92)に常泉寺第8世心巌宗智大和尚によって開山された。山門は江戸時代中期の建築で、さいたま市の有形文化財に指定されており、境内には、観音堂のほか鎌倉時代の大型の阿弥陀一尊種子板石塔婆などの石造物がある。

見沼代用水路東縁 自然保護活動 総寺院橋 総寺院
国昌寺の西側に見沼代用水路東縁があり、用水路に国昌寺橋が架かっている。渡詰め右手に 「見沼の龍神」 伝説案内板があり、用水路に沿って遊歩道が続き、国昌寺の北方にある総持院や鷲神社へも行くことができる。 見沼代用水路東縁の遊歩道を北に進んでいくと、左手の草むらに特定非営利活動法人エコ.エコの案内板が建っている。案内板の周囲には、竹で作られた龍神やカエルなどが並んでいる。 更に遊歩道を進むと見沼原形保全区間の先に、用水路に架かる総寺院橋がある。橋の手前には、見沼代用水碑があり、渡詰めの右手には、「緑のトラスト保全第一号地」 の看板が建つ竹林がある。 緑のトラスト保全第一号地の道路を挟んだ北側に、真言宗智山派の阿日山宝袋寺総寺院がある。総寺院は、天正5年(1577)頃に法印良秀が開山と伝えられているが、寺歴については不詳である。山門は鐘楼門で、境内には安永6年・天保7年の一面六臂の青面金剛の庚申塔のほか、4月~5月が見頃の牡丹があり、別名ボタン寺と呼ばれているそうである。

鷲神社 成田不動尊 八幡社 氷川社
総寺院の200m程北側に鷲神社がある。鷲神社の創建年代は不詳であるが、新羅三郎義光が奥州街道を下向する途次、当地で奇瑞を感じたことから神楽を奏上し、跡地に祠を建てて鷲明神を奉斎したと伝えられている。境内には、稲荷社、大六天社、水神社のほか、末社御神体7体を祀った境内社がある。 鷲神社から迷路のような道を抜けて街道に戻ると、国昌寺へ向かう際の信号交差点(さいたま市消防団第2分団前)から300m程先のファミリーマート前の信号交差点に出た。ここから300m程先の右手に不動堂(成田不動尊)がある。不動堂の奥は墓地になっており、入口に普門品一万巻供養塔、地蔵菩薩立像などがある。 成田不動尊から200m程先、右手に八幡社がある。八幡社の創建年代等は不詳であるが、綾瀬川の氾濫により、北東隣の高畑村から流れ着いたご神体を祀ったとも、代山城跡の西に位置することから、城の守護神として祀られていたものが落城後に村の鎮守になったとも言われている。境内には、末社の稲荷社のほか、力石、享和2年(1802)の手水石などがある。 八幡社から直ぐ先の右手に建つ浦和学院高等学校の看板の街道を挟んだ斜向かいに氷川社がある。氷川社の創建年代等は不詳であるが、上野田村の鎮守として祀られてきた神社で、上野田村の発展に伴って照光寺の創立(承応年間)と同時期に勧請されたと言われている。境内には、稲荷社のほか、雷電神社、秋葉社と思われる境内社がある。

照光寺 深井家長屋門 さぎ山記念公園 地蔵尊・石塔
街道に戻ると150m程先の左手筋を入ったところに曹洞宗の桃谷山照光寺がある。照光寺の創建年代は、氷川社の御由緒に記されていたが、上野田村村民の菩提寺となっており、承応年間(1652-55)の創立で、元は氷川社の裏手にあったが、神仏分離後、現在地に移転したという。本堂前には水子地蔵尊が祀られ、境内は植栽が多く、丸く刈られた庭木が印象的である。 照光寺の北東150m程のところに、深井家の長屋門が建っている。深井家は、江戸時代に上野田村の名主役を勤めており、この長屋門は弘化元年(1844)の建立という。形式は茅葺寄棟造りで、正面の通路部分は、「立ち隠れ」 があり、半間下げて門構えが設けられている。 街道に戻ってどんどん進み、天久保坂を下ると、左手にさぎ山記念公園がある。この公園は、かつてサギの繁殖地として国の特別天然記念物の指定を受けていた所である。さぎ山記念公園の奥で見沼代用水を越えた所から見沼自然公園となる。見沼自然公園の広い芝生広場の一角に、見沼代用水の開削者・井澤弥惣兵衛為永の銅像が建っている。 街道に戻って上野田交差点を過ぎると、直ぐ右手に覆屋があり、地蔵菩薩立像と三面に仏像が刻まれた石塔が建っている。石塔は文化2年1805)のもので、上部に 「天下泰平日月清明」、正面中央に 「為諸病悉除村中安全」 と刻まれている。

庚申塔 天神社 弁才天 光徳寺
地蔵尊・石塔から200m程先の右手にある村瀬自動車工業の手前筋を入って行くと、Y字路中央に覆屋に安置された一面六臂の青面金剛の庚申塔がある。造立年代は、明和5年(1768)で、右側面に梵字がたくさん刻まれている。 庚申塔の建つY字路を左に入って行くと、左手に上野田の天神社がある。天神社の創建年代等は不詳であるが、「新編武蔵風土記稿」 によると、染谷新田と上野田の鎮守として祀られていたようである。境内に説明版などはないが、拝殿には龍の彫刻が施され、火袋の無い石灯籠、文化13年(1816)の手水石などがある。 街道に戻って見沼代用水東縁に付かず離れず700m程進み、慰霊碑が建つ十字路交差点を左折して見沼代用水東縁を丼(どんぶり)橋で渡ると、左手の田んぼ道に弁天社がある。社の隣の石祠には、明治29年4月再建と刻まれている 街道に戻ると350m程先の右手に曹洞宗の江長山光徳寺がある。光徳寺は、文禄4年(1595)僧快厳による創建で、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領13石を賜わり、将軍家の日光社参の休憩所となっていたという。また、光徳寺は、新秩父三十四所霊場2番、片柳歴史散策コースとなっており、境内に案内板が建っている。

膝子一里塚跡 筆塚 庚申塔・膝子塚 満蔵寺
光徳寺を出ると、直ぐ先、右手に膝子一里塚跡がある。この一里塚は、江戸初期に築かれたもので、江戸日本橋から8里目であり、岩槻へ一里のところにある。塚上には、二代目の榎が植えられており、傍らに一石六地蔵尊、弘法大師廻国供養塔が建っている。 膝子一里塚から程なく、信号交差点を渡った左手の見沼代用水東縁の側に筆塚が建っている。碑の裏面をみると、「茲の筆塚は故森田久蔵の日常用いたる絵筆を遺言によりこの地に埋めたる記念碑である。久蔵は弘化元年(1845)2月2日に生まれ、云々」 と刻まれtている。 筆塚から程なく左手に一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。この庚申塔の奥に高さ2mを超える膝子塚がある。塚の正体は、古墳とも、江戸時代に生まれた奇形児を埋めた所とも定かではないが、塚上には愛宕社と塚腹に稲荷社が祀られている。、 膝子塚の先のT字路信号交差点を右折して行くと、右手に南を向いた真言宗智山派の八幡山明王院満蔵寺がある。満蔵寺の創建年代等は不詳であるが、法流開山は永深と言われ、境内には、嘉暦4年(1329)の市指定文化財の板石塔婆がある。また、山門の手前40m程のところに墓地があり、六地蔵尊、歴代住職の墓などがある。

旧道口 東宮下薬師堂 東宮下氷川神社 道標
街道に戻ると150m程先のさいたま市立七里中学校入口のY字路で、県道105号と分岐して右に進んでいく。 先に進んで300m程先のローソンを越えた三差路を右に折れて、住宅地を抜けていくと、左手の畑の奥に東宮下の薬師堂がある。薬師堂の創建年代等は不詳であるが、昭和17年(1942)に曹洞宗の大圓寺の管理になったという。境内には、種子板石塔婆のほか、たくさんの供養塔が建っている。 街道に戻って400m程先の東都観光バスさいたま営業所の手前右手筋を入っていくと、正面に東宮下の氷川神社がある。氷川神社の創建年代等は不詳であるが、境内には阿夫利神社、三神峰社、天神・稲荷・第六天の合祀社などの境内社があり、境内入口筋には、正徳5年(1715)の庚申塔が建っている。 街道に戻って進んでいくと、左手の特別養護老人ホームの先でY字路となり、右手に分岐すると、その直ぐ右手に道標があり、傍らにさいたま市教育委員会の説明版が建っている。道標は小さなもので、かろうじて読めるのは 「いわつき」 だけで、さいたま市教育委員会の説明版は文字が完全に消えていて読めない。さいたま市のホームページで調べると、正徳3年(1713)の道標とのことである。

古簀子橋 大橋 旧道口 加倉久伊豆神社
道標から150m程先で、深作川(ふかさくがわ)に架かる古簀子橋(ふるすのこはし)で渡っていく。深作川は、さいたま市見沼区島町に源を発し、芝浦工大大宮キャンパス辺りで開渠となり、古簀子橋の下流で綾瀬川に合流する一級河川である。 古簀子橋を渡り、その先で国道16号を横断して県道2号に合流すると、綾瀬川に架かる大橋がある。大橋は、江戸時代からの古い歴史がある橋で、橋と堰が一体となった構造であり、上流側に大橋井堰が併設されている。綾瀬川は、埼玉県桶川市に源を発し、草加市、越谷市を経て下流で中川に合流する延長49㎞の一級河川である。 大橋を渡り180m程先の信号交差点を左折し、県道2号と分かれ旧道に入っていく。ここから先は変則的な道なりで、北に向って東武野田線(東武アーバンパークライン)の踏切を渡り、東北自動車道を跨いで、南下して再び県道2号に合流する。不思議な曲り方をしており、地形上の理由か、城下町特有の曲り道なのかは不明である。 旧道に復帰してその先で再び県道2号に合流すると、間もなく右手に加倉の久伊豆神社がある。久伊豆神社は、元亀年間(1570-73)加倉村の農民が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守 「久伊豆神社」 として神璽を奉じて中島の地に遷祀したという。境内には、境内社の稲荷神社のほか、一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。

浄国寺 洞雲寺 加倉口跡 弥勒蜜寺
街道に戻ると直ぐ左手に浄土宗の仏眼山英隆院浄国寺がある。浄国寺は、岩槻城主太田氏房の発願によって、天正15年(1587)に建立され、同19年(1591)に徳川家康から寺領50石を寄贈されたという。江戸時代初期には、関東十八檀林の一つとなり、元和9年(1623)に阿部正次が岩槻藩主となった後は、同家の菩提寺となった。境内には、阿部正次・定高の墓、定高の母の供養塔などがある。 街道に戻って100m程先の右手筋を入っていくと、突き当たりに曹洞宗の加倉山洞雲寺がある。言い伝えでは、昔、この地に塚があり、毎夜鬼火が燃え、不思議なことが続いたことから、岩槻城主太田資頼が布州東幡禅師を招き、21日間の祈祷をして鎮めたという。その功を徳として禅師のために寺を建立したのが、洞雲寺の始まりと言われている。 街道に戻ると児童センター入口交差点の左手に加倉口跡がある。ここには岩槻城下町の出入口で木戸と番所があり、市宿町の住人が交代で木戸番を勤めていたという。 続いて次の本町一丁目交差点を右折して行くと、突き当りに真言宗智山派の光岩山釈迦院弥勒蜜寺がある。弥勒蜜寺の創建年代等は不詳であるが、桓武天皇の兄開成和尚が開創したとも言われている。境内には、薬師堂、稲荷堂、写経剃髪殿の堂宇のほか、人形大師像、子育地蔵尊などがある。

八雲神社 岩槻郷土資料館 高札場跡 田中屋本店
街道に戻ると直ぐ左手に八雲神社がある。八雲神社は、当地の旧家勝田氏の祖先勝田佐渡守が、永禄3年(1560)正月に市を開設した折に市の守護神として祀ったのが始まりと云われている。境内には、鹿島大神・猿田彦大神を合祀した境内社のほか、神輿収納庫がある。 八雲神社の街道を挟んだ向かいに岩槻郷土資料館が建っている。この建物は、岩槻城下町の大通りだった市宿町の中ほどにあり、昭和初期に建てられた旧岩槻警察署の建物を使用している。 先に進むと左手の八百屋安兵衛(㈲ヤマヤス)の前に高札場跡がある。高札場跡のモニュメントには、自動販売機が設置されており、この裏側に高札場の説明版があるが、手書きのため文字は消えている。この右手駐車場脇に、銅板の 「高札場と市宿通り」 の説明版が建っている。 高札場跡の街道を挟んだ斜向かいに、和菓子の田中屋本店がある。田中屋本店は、江戸時代後期の嘉永年間(1848-55)の創業で、岩槻城が白鶴城と呼ばれたことに因んだ、白鶴城印栗最中が有名である。蔵造りの店舗は、約160年前に建てられたものという。

芳林寺 藤宮製菓 辻行灯 岩槻藩遷喬館
田中屋本店の斜向かいの筋を入っていくと、正面に曹洞宗の太平山芳林寺がある。芳林寺は、龍池山洞雲寺の末寺で、比企郡松山城にあった太田道灌が尊信した地蔵尊を祀り、太平山地蔵堂と称したという。その後、永正17年(1520)火災に遭い、岩槻城下のこの地に再建されたという。境内には、太田道灌の墓、高力正長の墓、太田道灌像、開基芳林妙春禅尼像などがある。 街道に戻ると直ぐ右手に趣ある蔵造りの藤宮製菓がある。建物の創建年代は不明である。 直ぐ先の岩槻駅入口交差点の手前に、大きな辻行灯のモニュメントが建っている。辻行灯には、市宿通り・日光御成道と記されている。 岩槻駅入口交差点の次の右手筋を入っていくと、最初の左手筋の奥に岩槻藩遷喬館がある。遷喬館は、江戸時代後期の寛政11年(1799)に岩槻藩の学者児玉南柯が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となったものである。現存する建物は、遷喬館の学舎として使用されたもので、15畳と9畳の部屋からなっている。

学蔵寺 東玉大正館 願生寺 愛宕神社
遷喬館の直ぐ東側に日蓮宗の恵光山是雲院学蔵寺がある。学蔵寺の創建年代等は不詳であるが、当初、真言宗の草庵として創立されたが、その後、学乗院日恵により中興開山されたと云われている。境内には、法華経を守護する女神である七面大明神を祀る御堂などがある。 街道に戻ると直ぐ左手に、煉瓦造り2階建ての東玉大正館が建っている。東玉大正館は、中井銀行岩槻支店として大正時代後期に建てられたもので、国登録有形文化財に指定されている。 街東玉大正館から150m程先の左手筋奥に、浄土宗の実相山西方院願生寺がある。願生寺の創建年代等は不詳であるが、当寺にはさいたま市指定有形文化財の阿弥陀三尊図像月待供養板碑がある。 街道に戻り、次の信号交差点を左折して、最初の右手筋を入っていくと、左手奥に愛宕神社がある。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代初期の 「武州岩槻城図」 に愛宕神社が記されている。社殿は岩槻城の土塁の上に鎮座しており、境内には松尾神社、稲荷神社、天神社の境内社などがある。

久保宿町一里塚跡 大龍寺 時の鐘 岩槻城址公園
街道に戻ると直ぐ先右手の 「にぎわい交流館いわつき」 の前に,、岩槻城下久保宿町の一里塚跡がある。岩槻には笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原の3か所に一里塚が設けられていた。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていたという。 久保宿町一里塚跡の街道を挟んだ斜向かいに参道口があり、突き当りに曹洞宗の雲居山大龍寺がある。大龍寺は、岩槻城主青山伯耆守忠俊が開基といわれている。参道口には六地蔵尊、享保10年(1725)の一面六臂の青面金剛の庚申塔があり、境内には道元禅師像が建っている。 街道に戻り200m程先の渋江交差点を左折するのが日光御成道であるが、右折すると左手に時の鐘がある。時の鐘は、寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造された。その50年後、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信が改鋳したものが現在の鐘である。 渋江交差点に戻り日光御成道に入らずに直進し、城址公園入口交差点を右折すると岩槻城址公園がある。岩槻城は室町時代末に築かれた城郭で、築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍城主となる成田氏とする説など様々である。公園内には、「黒門」 と呼ばれる長屋門、岩槻城裏門と言われる門のほか、堀障子と呼ばれる障害物のある空堀などの遺構がある。

渋江通り 浄安寺 東武野田線 久伊豆神社
街道に戻って渋江交差点を左折していくと、右手に日光御成街道の大きな立看板が建っている。 間もなく右手に浄土宗の快楽山微妙院浄安寺がある。浄安寺は、かつては真言宗の寺院であったが、永正2年(1505)天誉了聞上人が浄土宗に改めて開山したという。境内に入ると正面に本堂、左手に閻魔堂、永代供養墓の 「やすらぎ五輪塔」、抱き上げ地蔵尊のほか、墓域には児玉南柯の墓、高力清長の墓などがある。 浄安寺の先で東武野田線(東武アーバンパークライン)の高架下をくぐっていく。 東武野田線の高架下をくぐって200m程進むと、右手のさいたま市消防団岩槻第2分団建屋の前に、大正14年(1925)の久伊豆神社社標が建っている。この筋を東へ東へと進むと久伊豆神社がある。久伊豆神社は、欽明天皇の御代(539-71)に出雲族の土岐氏が東国へ移住するにあたり、この地に出雲族の親神たる大己貴命(大国主命)を祀ったのが始まりという。境内は社叢が茂る長い参道が続き、参道脇には神輿堂、神楽殿、神苑のほか、たくさんの石造物がある。

龍門寺 地蔵堂 馬頭観音 慈恩寺橋
街道に戻って先に進むと、街道が右に曲がる手前左手に、曹洞宗の玉峰山龍門寺がある。龍門寺は、小田原北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したものだという。境内に残る西側と北側の土塁は館の名残と言われている。境内には、観音堂、白山堂、開基堂、稲荷社のほか、江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光の墓、自由民権運動家後藤富の墓などがある。 龍門寺の前から右(東)に曲がって進んでいくと、Y字路交差点の中央に地蔵堂があり、傍らに弘法大師像を刻んだ道標を兼ねた供養塔が建っている。 地蔵堂から300m程先の交差点の右角に板塀の旧家があり、その前に明治23年(1890)の馬頭観音が建っている。 馬頭観音から程なく、元荒川に架かる慈恩寺橋を渡っていく。元荒川は、埼玉県熊谷市久下に源を発し、行田市、鴻巣市、久喜市などを流れ、下流の越谷市中島で中川に合流している。かつては荒川の本流であり、寛永6年(1629)に荒川から切り離された。

猿田彦大神 馬頭観音 石橋供養塔 東岩槻駅
慈恩寺橋の渡詰め左手に覆屋に安置された猿田彦大神がある。この猿田彦大神碑は、昭和3年(1928)のもので、道標を兼ねており、「南岩槻町に至る約2000米・西蓮田に至る約4000米」 などと記されている。 猿田彦大神から200m程先の右手民家の手前に昭和5年(1930)の馬頭観音が建っている。 馬頭観音から程なく、岩槻工業団地入口交差点の右角に天明元年(1781)の石橋供養塔が建っている。石橋供養塔が建っていた川は不明であるが、左側面に 「発願 関根善右衛門 上野村中 近郷在町助力」 と刻まれている。 今回は石橋供養塔で終了し、ここから約1.3㎞程東にある東武野田線(東武アーバンパークライン)の東岩槻駅へ出て帰宅の途に就いた。

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