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日光御成道   (岩槻~日光街道追分


令和4年9月1日(木)   ☁|☂    岩槻~日光街道追分    12.0㎞
街道を歩く際はいつも前日の天気予報で決めているが、本日の午前中は台風11号の影響もあるが、概ね曇空という予報であったので決行することとした。距離的はそれほど長くはないが、いつものように早い時間に街道をスタートすることとした。

石橋供養塔 道標 慈恩寺入口交差点 慈恩寺
前回(R4.8.27)の続きは、岩槻工業団地入口交差点の石橋供養塔の前からである。この石橋供養塔は、天明元年(1781)のもので、左面には、「発願 関根善右衛門 上野村中 近郷在町助力」 と刻まれている。 石橋供養塔から程なく右手筋の入りl口に道標が建っている。上部に千手観音と思われる仏像が刻まれ、その下に [是より慈恩寺道」 と刻まれている。この筋を入っていくと1.3㎞先に慈恩寺があるが、街道を歩くために更に先に進んでから慈恩寺に寄ることとした。 道標から1.4㎞程先の慈恩寺入口交差点に大きな看板があり、「坂東十二番札所慈恩寺観音、ここ右折1.2㎞」 とある。ここで雲行きが怪しくなり、急に暗くなってきた。 慈恩寺へ向かう途中で雨が降り始め、山門前に着いた時は土砂降りになっていた。慈恩寺は、天台宗の華林山最上院と号し、天台座主慈覚大師が天長年間(824-34)に開山したという。境内には、開山堂、最上院、太子堂の堂宇のほか、岩槻城主太田氏房の家臣・伊逹与兵衛房実が寄進した南蛮鉄の灯籠、青銅製阿弥陀如来像、宝篋印塔などたくさんの石造物がある。

庚申塔 普門品供養塔 相野原一里塚跡 地蔵菩薩
慈恩寺入口交差点に戻ると、慈恩寺の看板の下のブロック塀に庚申塔が建っている。この庚申塔は、宝暦5年(1755)のもので、右側面に 「是よりよしみミち」 と刻まれている。 庚申塔から100m程先の左手筋を入っていくと、植栽の中に文政11年(1828)の普門品供養塔が建っている。この普門品供養塔は道標を兼ねており、「左かすかべ道、右志おんじ道」 と刻まれている。 街道に戻ると直ぐ右手のワコー産業の前に相野原一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて10里目の一里塚跡であるが、付近に説明版などは設置されていない。 相野原一里塚跡の街道を挟んだ向かい側の林の前に、享保7年(1722)の相野原村講中と刻まれた地蔵菩薩が建っている。

杉並木 日枝神社 杉並木 白山神社
地蔵菩薩の先にまばらではあるが、街道名残の杉並木がある。 杉並木の先左手に相野原の日枝神社がある。日枝神社の創建年代等は不詳であるが、当地を開拓した住民が、江戸城の西の鎮護であった山王宮を勧請したのが始まりと云われている。境内には、稲荷大明神と菅原道真を合祀する境内社がある。 日枝神社の先も僅かな街道名残の杉並木がある。 杉並木の先の右手にある蕎麦店 「仁屋」 の手前の筋を入って突き当りを左折すると、右手に白山神社がある。白山神社の創建年代等は不詳であるが、古地図には白山と記されており、境内には天神社石祠、霊神碑のほか、伊勢参拝記念碑など6基の石碑が建っている。

和泉三社 庚申塔 宝国寺 庚申塔
白山神社の北側に近接して和泉三社がある。和泉三社の創建年代等は不詳であるが、古くから鹿室村全体で祀られてきた神社であり、祭神となった三柱(仁徳天皇・履中天皇・反正天皇)の陵墓が和泉国大島郡(大阪府堺市)にあることから 「和泉三社」 となったと言われている。境内には、宝永5年(1708)の力石、宝暦9年(1759)の稲荷大明神石祠などがある。 街道に戻って蕎麦店 「仁屋」 の先を170~80m程進むと右手の民家入口脇に祠があり、中には 「青面金剛」 と刻まれた庚申塔が安置されている。 先に進むと左手に曹洞宗の龍沢山宝国寺がある。宝国寺は、能山聚芸大和尚が開山で、文久年間(1861-63)に火災に遭い、本堂、古記録は焼失している。境内には、子育て安産延命地蔵尊を祀る地蔵堂のほか、たくさんの地蔵菩薩が並んでいる。また当寺門外の富士見所には、日光社参の折に休憩をとるための茶屋が設けられたという。 街道に戻ると程なく鹿室交差点に祠があり、一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。

庚申塔 白岡市 安楽寺 往還橋
鹿室交差点から250m程先の左手民家の庭先に平成22年(2010)の文字庚申塔が建っている。 庚申塔の直ぐ先で、さいたま市から白岡市へ入っていく。 先に進んで岡泉交差点を右折して300m程入った左手に真言宗智山派の朝日山遍照院安楽寺がある。安楽寺の創建年代等は不詳であるが、薬師堂の薬師如来坐像は弘法大師の作とも伝えられている。境内には、種子板石塔婆、青面金剛の庚申塔、文字庚申塔、馬頭観音などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先で隼人堀川に架かる往還橋を渡っていく。隼人堀川は、久喜市にある栢間沼(かやまぬま)に源を発し、下流で大落古利根川に合流している。往還橋の上流に義理橋があり、将軍一行が日光社参の際に、地元の人は岩槻境まで行き、将軍を出迎え、直ぐに義理橋を渡って岡泉の外れまで先に行って、将軍一行を見送ったと言われている。往還橋の名は、日光社参の将軍一行の往還から付けられたものであろう。

最勝寺 浅間神社 大徳寺 正伝寺
往還橋を渡り彦兵衛交差点を過ぎると、左手に曹洞宗の最勝寺がある。一見して寺院とは思えないが、境内に入っていくと2基の庚申塔が山門の代わりになっているようである。更に入って行くと、普門品供養塔、大乗妙典供養塔があり、右手に本堂と思われる建屋がある。 最勝寺を出ると、直ぐ先左手に浅間神社がある。浅間神社は安永3年(1774)の創立と言われ、社殿は築山の上にあり、傍らには天保2年(1832)の手水石、明治41年(1908)の伊勢太々紀念碑、高尾坐大神碑などがある。 浅間神社から西に150m程住宅地を抜けると、曹洞宗の金界山大徳寺がある。大徳寺は、徳祐上人が大和国より武蔵国に下向し、大日如来座像を安置して祈祷道場として開いたの始まりと云われている。境内には、地蔵堂、朱塗りの白山堂、白岡市指定文化財の大日如来を祀る大日堂にほか、大きな徳見観音(聖観世音菩薩立像)、一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。 街道に戻って下野田地区に入り、姫宮落川(ひめみやおとしがわ)の手前左手筋を入っていくと、曹洞宗の聖徳山正伝寺がある。正伝寺は、岩槻城主太田十郎氏房が開基と言われている。境内には、聖徳太子像を祀る太子堂、当寺第4代住職を祀る開山堂がある。

橋場橋 不動明王 下野田一里塚跡 六地蔵尊
街道に戻って姫宮落川(ひめみやおとしがわ)に架かる橋場橋を渡っていく。姫宮落川は、久喜市下早見を起点とし、東武動物公園の脇を流れ、下流で大落古利根川に合流する。 橋場橋の渡詰め左手に小御堂があり、中には嘉永4年(1851)の不動明王像が刻まれた石塔が安置されている。 橋場橋から250~60m程先に、下野田の一里塚跡が両塚ともに残っている。前方に見える街道両側の榎の大木が下野田の一里塚跡で、ここは江戸日本橋から数えて11番目の一里塚跡である。 先に進むと右手のヤマト運輸埼玉白岡センターと(有)ハチハチ工業の間に六地蔵尊が建っている。六地蔵尊の奥のスペースには、2基の供養塔が建っている。

庚申塔 鷲宮神社 庚申塔 国納橋
六地蔵尊から程なく上野田交差点の左角に庚申塔が建っている。庚申塔は覆屋に安置され、その前には鳥居が建っている。庚申塔は、貞享3年(1686)の道標を兼ねた一面六臂の青面金剛の庚申塔で、左脇には安永9年(1780)の廻国供養塔が建っている。 上野田交差点の先を進み、およそ900m程先の左手に西粂原の鷲宮神社がある。鷲宮神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代に編纂された 「新編武蔵風土記稿」 には、当神社は村の鎮守で明知寺持と記されている。境内には、明和7年(1770)の石祠、安永2年(1773)の鷲宮奥院石祠、文化3年(1806)の庚申塔など多くの石造物がある。 先に進むと備前堀川に架かる国納橋の手前左手に一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。周囲は一面、萩のような草が生い茂り、雨模様の中ではなかなか近くに行くことが出来ない。、 庚申塔の前の備前堀川を国納橋で渡っていく。備前堀川は、加須市で農業排水路を合流して流れ、国納橋の直ぐ下流で大落古利根川に合流している。備前が付けられているのは、堀を開削した伊奈忠次が、備前守の官職に就いていたことに由来するという。

東武伊勢崎線 浅間神社 庚申塔 和戸小橋・和戸橋
国納橋から300m程先で東武伊勢崎線の伊第163号踏切道を渡っていく。 東武伊勢崎線を渡ると、直ぐ左手に和戸の浅間神社がある。浅間神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代の初め、個人持ちの社であったものを、文化14年(1817)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社になったと言われている。参道の先の朱の鳥居をくぐると、その先の築山の上に社殿があり、塚腹には富士登山参拝紀念碑などが建っている。 浅間神社から直ぐ先の和戸交差点の手前、左手のブロック塀の間に、天保13年(1843)の文字庚申塔が建っている。 和戸交差点から程なく備前前堀川に架かる和戸小橋と大落古利根川に架かる和戸橋が連なっており、この橋の下で備前前堀川と大落古利根川が合流している。備前前堀川は、久喜市で備前堀川から分流して備前堀川とほぼ並行しており、大落古利根川は、青毛堀川と葛西用水路が合流する辺りから中川に合流するまでの流路である。

庚申塔 大落古利根川治水碑 下高野一塚跡 八幡神社
和戸橋を渡って直ぐの和戸交差点の三叉路中央に宝暦7年(1757)の文字庚申塔が建っている。正面には、「参姑神」 と刻まれ、参姑は三尸を意味するという。左側面には、「右すぎと道、左さつてミち」 と刻まれ、道標を兼ねた庚申塔であることが分かる。 和戸交差点の左手には大きな大落古利根川治水碑、大落堀悪水路土地改良区之記念碑ほか石碑が建っている。この一角は柵で覆われ、入口に鍵がかかっているため、中に入って確認は出来ない。 和戸交差点から500m程進むと、右手に下高野の一里塚跡がある。ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたもので、現在は東塚だけが残っている。ここは江戸日本橋から数えて12里目の一里塚跡である。 先に進むと800m程先の左手に下野田の八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、江戸期の 「新編武蔵風土記稿」 によれば、下野村の鎮守の一つで村民持ちと記されている。明治5年4月の社格制定に伴い村社となった。大正12年の関東大震災で全壊、平成13年4月の火災で全焼したが、平成13年12月に再建され、現在に至る。境内には、馬頭観音、地蔵尊、庚申塔などの石造物がある。

天神社 圏央道 馬頭観音 琵琶溜井
八幡神社を出ると、その先の信号交差点の右角に、街道に背を向けて天神社が鎮座している。天神社の由緒等は全く不明であるが、境内には稲荷神社、香取神社の小さな石碑がある。 天神社から350~60m程先で幸手市に入り、その先で圏央道(国道468号)の高架下をくぐっていく。 圏央道をくぐった直ぐ先の信号交差点の左角に、文化14年(1817)の馬頭観音が建っている。この馬頭観音は、正面に 「馬頭観世音」、左面に 「右日光、左いわつき」、右面に 「くき、志ようぶ、かず道」 と刻まれており、道標を兼ねたものである。 馬頭観音を左折すると葛西用水路が流れ、上流に琵琶溜井がある。琵琶溜井は、万治3年(1660)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたものである。琵琶溜井の西には、昭和57年に竣工した琵琶溜井記念館があり、事前申し込みにより見学ができる。記念館の庭には、三ツ林弥太郎像があり、敷地内に改修記念碑が建っている。

庚申塔 日光街道合流点
街道に戻ると、直ぐ左手に正徳2年(1712)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。庚申塔の脇には、「日光御成道と琵琶溜井」 の説明板が建っている。 庚申塔から程なく、右手から来る日光街道に合流し、日光御成道の終点である。ここには、日光道中・日光御成道合流点の案内板が建っている。

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