当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺4世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明18年(1486)7月26日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正17年(1520)8月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曽孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空に聳えたという。そして50石を寄贈され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公が相州伊勢原の上杉定正の館で謀殺された時、父の太田道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨を貰い受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄10年(1567)3月8日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と決めたのであった。
 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄10年(1567)8月23日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。天正18年(1590)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。そして、嫡男・高力正長公が慶長4年(1599)3月22日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠勝公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を経てまたも文化8年(1811)2月18日焼失し、現在の本堂は天保12年(1841)5月再建したものと云われている。
 明治4年(1871)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。 

芳林寺由緒碑

太田道灌騎馬像

太田道灌床几像

 徳川家康に仕え、仏高力といわれた岩槻城主高力清長の長男として、永禄元年(1558)三河国に生まれ、元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦を初陣として、長篠合戦や甲州攻め、長久手合戦等に戦功をあげた。
 天正15年(1587)駿府で大番頭を勤め、慶長4年(1599)従五位下土佐守に任ぜられたが、同年3月22日惜しくも病没。行年42歳。
法名 快林院殿全室道機大禅定門

高力正長公霊廟

高力正長墓(宝篋印塔)

 太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長従五位下、左衛門大夫、備中守、のちに剃髪して道灌と号した。
 扇谷上杉定正の家宰として仕え、長禄元年(1457)、父道真とともに江戸城・岩槻城・川越城を築き、各地の乱を平定するなど、主家や関東の安寧のためその知略の才をいかんなく発揮した。
 また、常に古今の兵書を読んで軍法の道に達し、和歌や漢籍にも通じるなど文武兼備の名将として名高い。
 しかし、道灌公の感徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」 として、文明18年(1486)7月26日、相州糟屋の上杉定正の館において謀殺される。享年55歳。
 亡骸は荼毘に付したのち、分骨をゆかりの地である岩槻の当寺にも埋葬したと伝えられる。
大正7年11月18日追贈従三位
法名 香月院殿春苑道灌大居士

太田道灌霊廟

太田道灌墓(宝篋印塔)

青銅製燈籠

手水舎

六地蔵尊

弁天堂

弁才天像

地蔵堂

宝珠稲荷

本堂に掛かる太平山の扁額

金刀比羅大権現・白山大権現・三峯大権現を祀る不動堂

芳林寺中門

芳林寺本堂

芳林寺山門

当寺開基芳林妙春禅尼像