当地は芝川と綾瀬川に挟まれた大宮台地上に位置する。永禄6年(1563) 「太田資正書状」 に 「たい山の内、てら山・たい野は」 と載り、この地の開発が戦国時代まで遡ることが知られる。地内には岩槻太田氏の家臣小久保縫殿助又は山田大隅が居住し、天正18年(1590)の岩槻落城と共に滅びたと伝わる代山城跡がある。
 当社は日光御成街道に面して鎮座している。口碑によれば、いつのころか綾瀬川の氾濫により、北東隣の高畑村から御神体が流れ着き、それを村人が見付けて祀ったのが当社で、そのために高畑の人は今でも当社を参拝しているという。あるいは、代山城跡のすぐ西に位置することから、城の守護神として祀られていた八幡社が落城した後に村の鎮守となったとも考えられる。
 「風土記稿」 代山村の項には 「八幡社 村の鎮守なり、末社、稲荷社二宇、別当、光福寺 新義真言宗、大門宿大興寺の門徒、八幡山と号す、本尊阿弥陀を安ぜり」 と記され、江戸後期の状況が知られる。
 別当の光福寺は当社の東に隣接して建っていたが、明治初年の神仏分離により当社の管理を離れ、寺子屋を営んだという。その後、焼失して廃寺となった跡地に野田小学校が建設された。
 「明細帳」 によれば、当社は明治6年に村社となり、同41年に字後谷津(うしろやつ)に鎮座する無格社厳島社を合祀した。

八幡社脇の代山自治会館

享和2年(1802)の手水石

八幡社石鳥居

手水舎

力石

稲荷社本殿

境内社の稲荷社鳥居

境内社の稲荷社

八幡社御由緒

八幡社拝殿

拝殿に掛かる正八幡宮の扁額

八幡社本殿覆屋