井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが、徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると承応3年(1654)になっています。
為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成された亀池は代表的な施設として現在でもその姿を保っています。
享保元年、徳川吉宗が8代将軍になった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保7年、江戸に召し出し、紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。
為永は享保10年、新田開発のため見沼溜井を視察し、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保12年(1727)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越・綾瀬川の上を通す掛渡井等を建築し、翌年の春に完成させ、総延長約60㎞に及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。これにより見沼溜井約1200haの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することとなりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(久喜市)等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水、天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして閘門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保16年(1731)完成させています。これは当時のわが国の技術レベルの上でも、世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀遺跡は国指定史跡となっています。
為永は晩年、美濃郡代を兼ね、元文3年(1738)3月にその生涯を閉じたとされています。
なお、「見沼代用水路」 の名称については、見沼に代わる水源としての用水路との理由から命名されたものです。
見沼代用水開削者・井澤弥惣兵衛為永像
さぎ山記念公園と見沼自然公園の間を流れる見沼代用水東縁
さぎ山記念公園
井澤弥惣兵衛為永説明