浄安寺の円空仏
江戸時代の僧・円空が作った仏像で、仏法を守護する 「護法神立像」 と華厳宗で説く求道の菩薩 「善財童子立像」 の2体が伝わっています。護法神立像は高さ87.6㎝。頭部は怒髪を高く逆立て、胸元で合掌する姿を表しています。善財童子立像は高さ107.8㎝。合掌する童子の愛らしい表情を大胆な衣文を彫り出すことによって際立たせています。
木造阿弥陀如来立像
増高78.5㎝、ヒノキ材の寄木造りで、漆箔を張り、衣部分は、艶消しの技法を用いた上に、金箔を細く切って文様を描いています。顔貌や衣文線などに慶派の特徴が見られることから、鎌倉時代の作と考えられます。市内における数少ない鎌倉仏として貴重です。
「漂客紀事」 及び 「徳教篇」 版木
児玉南柯が著した 「漂客紀事」 と 「徳教篇」 の版木です。前者は南柯が岩槻藩勝浦領郡奉行として行なった、中国の難破船漂着事件処理の顛末記。後者は、儒教に基づく村民教化のために著したものです。
版木は、杉戸宿で薬商を営み、南柯と親交のあった内山周文が贈ったもので、菩提寺となった浄安寺に伝えられました。
児玉南柯の墓
児玉南柯 (延享3年(1746)~文政13年(1830))は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者、藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」
を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政13年、病のため85歳で死去し、浄安寺に葬られました。:
高力清長・徳松丸・竹の局の墓及び供養塔
高力清長は江戸時代最初の岩槻城主。慶長13年(1608)に死去し、浄安寺に葬られました。徳松丸と竹の局は、徳川家康6男松平忠輝の子及び側室。忠輝改易後、岩槻藩主阿部家に預けられましたが、共に寛永9年(1632)に死去し、浄安寺に葬られました。
(さいたま市教育委員会)
浄安寺の指定文化財
納骨堂の抱き上げ地蔵尊
浄安寺本堂
永代供養墓 「やすらぎ」 五輪塔
浄安寺山門
山門に掛かる快楽山の扁額
浄安寺寺標
(内閣総理大臣中曾根康弘氏謹書)
閻魔大王像
金色の地蔵菩薩像
閻魔堂