鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる幹線道が元荒川(当時は荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。奥大道は鎌倉街道の一つで、関東の政治の中心・鎌倉から北関東・東北地方方面へと通じる街道です。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。
 13世紀の後半以降、戦国の動乱が恒常化すると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、岩槻城を中心とする都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献史料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして、戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化し、岩槻城主の領域支配の核であり象徴でもある城下町が確立しました。
 江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、岩槻城大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町屋(商工業ゾーン)が配置されました。また、旧来の街道は将軍の日光参詣路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。
 武家地内は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生垣や板塀で区画された広壮な武家住宅が形成されました。大構の出入口と、武家地・町家の出入口は口と呼ばれ、門・木戸が設けられていました。城下町に由来する文化財の一つ、時の鐘は、寛文11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、そうした口の一つ、渋江口に設置したものです。
 町家では、「うなぎの寝床」 などと言われる細長い区画の区分され、さまざまな業種の商家などが通りに面して店を構えていました。町家の商家は岩槻城主や家臣の需要に応えるばかりではなく、周辺農村に必要物資を供給する役割も果たしていました。町場の中心である市宿町では、戦国時代以来の六斎市(毎月6回開かれる定期市、中宿では1と6の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などで賑わいました。

 岩槻城下の時の鐘は、寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。50年後の享保5年(1720)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は1日3回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、1日12回撞かれていたようです。(「新編武蔵風土記稿」他)
 鐘楼は、嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っています。
(岩槻市教育委員会)

岩槻城址碑

時の鐘

時の鐘説明

城下町岩槻案内