自由民権運動家後藤富哉の墓
力石
義山天墓碑
江戸幕府の側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(1760年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には
「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には 「武州岩槻城主従四位品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」 と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石燈籠が残されています。
大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
忠光は300石の旗本の家に生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次、若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人にまで出世し、第9代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。
宝暦元年(1751)には勝浦(千葉県)1万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦6年には2万石の岩槻藩主となりました。
岩槻藩主としての忠光の在任期間は4年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦10年4月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶50人余による盛大な葬儀が当山で行なわれています。
明治維新まで続く岩槻藩主大岡家8代の基礎を作っ名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。
(さいたま市教育委員会)
大岡家の墓説明
大岡出雲守忠光公墓所
大岡主膳正忠貫子爵墓所
(岩槻藩大岡家8代藩主)
桂光院殿華岳宗栄禅童女墓所
(岩槻藩主姫君)
山縣大弐先生は岩槻藩士(侍医兼儒官・藩主補佐役)時代、徳川幕府側用人・岩槻藩主大岡忠光公からの情報をもとに維新の書 「柳子新論」 を宝暦9年(1759)完成させた。
宝暦10年、忠光公没後、当寺寺宝の 「忠光公行状記」 (さいたま市子弟文化財)を記し、忠光公の墓碑、墓地造営(市指定史跡・境内)に尽力した。
なお、「柳子新論」 は幕末の思想家吉田松陰・久坂玄瑞にも影響を及ぼした。
元禄12年(1699)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
山縣大弐先生ゆかりの地碑
六地蔵尊
青銅製聖観世音菩薩立像
七福神
鐘楼
観音堂の聖観世音菩薩立像
戦国時代の天文19年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内に西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残と云われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。江戸時代には、幕府の祖・徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。
国指定重要文化財(工芸品)無銘伝助真一口
長さ70㎝あまり、銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託。
市指定有形文化財(歴史資料)龍門寺所蔵資料一括
宝暦10年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書 「柳子新論」 を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた
「大岡忠光行状記」 や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝承した資料です。
現在は埼玉県立歴史と民族の博物館、埼玉県立文書館に寄託。
市指定有形文化財(建造物)龍門寺山門一棟
一間一戸で、柱が4本からなる薬医門形式、桁行約3.5m、梁間約2.4mを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面の据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政10年(1798)の墨書銘が発見されました。
市指定史跡大岡家の墓
江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760没)の墓、石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石燈籠を配しています。境内南側(山門入って左側)にあります。
(さいたま市教育委員会)
不許葷酒入山門碑
龍門寺の文化財説明
白山堂
水子地蔵尊
龍門寺山門
龍門寺本堂
本堂に掛かる玉峰山の扁額
参道口に建つ境内社の稲荷社
植栽で覆われた龍門寺参道
龍門寺総門
開基堂