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隅田川


平成29年11月16日(木)~17日(金)    ☁|☀    26.5㎞
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、下流で東京湾に流れ込む全長23.5kmの一級河川である。
江戸時代には瀬替えにより荒川の本流が流れたが、明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐため岩淵水門から荒川放水路が開削され、それまでの荒川の本流は 「隅田川」 に改称された。江戸時代には防衛のため架橋が制限されており、明治頃まで渡しによって渡河していたが、その後、交通量の増加により木橋などが架けられた。これらの橋は、大正12年(1923)の関東大震災で崩落し、鋼橋へと架け替えられていった。これら隅田川に架かる橋梁のうち歩行できる26橋を中心に見ていくこととする。

旧岩淵水門 荒川下流河川事務所 岩淵水門 隅田川起点
現在の荒川と隅田川の分岐地点に、大正5年から大正13年にかけて造られた旧岩淵水門が保存されている。
水門を渡った小島(緑地)には、全日本草刈選手権を記念した 「草刈の碑」、青野正作の 「月を射る」 というオブジェが建っている。
旧岩淵水門の南側を流れる新河岸川沿いに荒川治水資料館・荒川下流河川事務所があり、敷地内に荒川放水路完成記念碑・船堀閘門頭頂部・京成押上線旧荒川橋梁基礎杭などがある。 旧岩淵水門の下流300m程のところに、青色の岩淵水門がある。
この水門は、旧岩淵水門の老朽化・地盤沈下により、昭和57年(1982)に建造されたものである。
右手の岩淵水門を流れ出たところが隅田川の起点となり、左手から新河岸川が合流してくる。
隅田川の右岸(西側)は、防潮堤が高くて川面は見えず、防潮堤に沿って進んでも7~800メートル先で行き止まりとなるため、左岸(東側)の堤防上を進んで行く。
堤防の左手は荒川の新東京都民ゴルフ場が続き、程なく隅田川は右に蛇行して行く。

防潮堤 新神谷橋 新田橋 新豊橋
堤防を降りると暫く防潮堤が続き、川面を見ながら歩くことは出来ないが、途中の都バス折り返し点にある高台から上流を望むことができる。 隅田川に架かる最初の橋が新神谷橋である。
新神谷橋は、昭和40年(1965)に架けられた橋長153mの鋼鈑桁橋で、環状7号線(都道318号線)が通っている。かつては神谷堀公園辺りに神谷橋があり、橋名はこれに由来するという。
また橋下には水道管が施設されており、水道橋も兼ねている。
新神谷橋の上下流域。
新神谷橋から隅田川右岸(西側)の川沿いテラスを下って行くと新田橋の全景を見ることができる。新田橋は、昭和36年(1961)竣工の橋長114mの鋼桁橋であり、橋名は左岸の足立区新田に由来する。橋桁は木橋時代を模したA字型をしている。
新田橋の上下流域。
新田橋下流は、両岸ともにテラスが無いので、左岸(北側)の防潮堤脇を進んで、新田さくら公園前に出る。この写真は橋を渡って右岸(南側)から撮ったものである。
新豊橋は、平成19年(2007)に架橋された橋長105mの新しい橋であり、橋名は北岸の足立区新田・南岸の北区豊島に由来する。
新豊島橋の上下流域。

隅田川テラス 豊島橋 宮城ファミリー公園 小台橋
新豊橋の左岸(北側)から下流を望むと、中央に荒川に架かる首都高速中央環状線の五色桜大橋が遠望できる。
隅田川テラスでは釣り糸を垂れる釣人が見られ、大きく右に曲がった左手に宮城ゆうゆう公園からは、間近で五色桜大橋を見ることができる。
宮城ゆうゆう公園の直ぐ先に豊島橋が架かっている。豊島橋は、平成13年(2001)に竣工された橋長106mの単純下路式鋼ローゼ桁橋といわれるアーチ橋であり、都道307号線が通っている。かつては上流300m程のところに木橋が架かっていたという。
豊島橋の上下流域。
豊島橋下流の右岸(西側)は、川沿いを歩けないため左岸(東側)を進むが、すぐ先で通行止めとなり、宮城ファミリー公園を横切って 「みやぎ水再生センター」 脇を抜けて隅田川沿いを下って行く。 小台橋は、左岸からは防潮堤に遮られて見えないが、橋を渡って右岸に出ると橋の上下流に僅かにテラスがあるので、そこから全景を見ることができる。小台橋は、橋長122mの橋で昭和8年(1933)に架橋され、その後、老朽化によって平成4年(1992)に現在の橋に架け替えられた。
小台橋の上下流域。

尾久橋 馬捨場跡 尾竹橋 京成本線
小台橋の下流からは左岸(北側)の防潮堤脇を進んで、島忠ホームズ足立小台店前で隅田川が見通せる場所に出る。(写真)
尾久橋は、昭和7年(1932)に創架されたが、その後、交通量の増加や老朽化により、昭和43年(1968)に現在の橋に架け替えられた。橋長は431mあり、北詰で荒川に架かる扇大橋と繋がっている。橋の上に電車が見えているが、これは日暮里舎人ライナーの橋梁である。
尾久橋の上下流域。
尾久橋下流の右岸テラスを進むと、途中で餌を投げている人に沢山のカモメが乱舞していた。さらに下って行くと都立尾久の原公園前に上尾久村の馬捨場跡がある。
ここは、かつて軍事用・宿駅維持のために重用された馬が死んだ際に持ち込まれ、解体された馬捨場があり、現在、馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られている。
尾竹橋は、昭和9年(1934)に関東大震災復興事業の一環として架橋されたもので、現在の橋は老朽化等により、平成4年に架け替えられたもので、橋長は130mである。
尾竹橋の橋名は、かつてこの地に有った 「尾竹の渡し」 に由来し、その尾竹は渡し場にあった茶屋の娘 「おたけ」 に由来すると言われている。尾竹橋の上下流域。
左岸テラスを下って行くと、隅田川が大きく右に蛇行する辺りでテラスが無くなり、住宅地を抜けて防潮堤脇に出ると京成本線の橋梁が見える。

隅田川テラス 水道橋 千住大橋 鉄道橋梁
京成本線の橋梁を過ぎると、再び隅田川テラスが復活している。
このテラスは、最近整備された様子で遊歩道・手摺などが新しい。川沿いには、隅田川旧防潮堤の一部がモニュメントとして残されている。
千住大橋の上流200m程のところに水道橋が架かっている。 千住大橋は、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594)に架橋された隅田川最初の橋である。架橋後は、何度も改架・改修が行われ、現在の橋は昭和2年(1927)に鉄橋として架橋された。上流側に水道橋、下流側に新橋が架橋されているため、側面から全景を見ることはできない。北詰には大橋公園があり、奥の細道矢立初めの地碑がある。
千住大橋の上下流域。
千住大橋の下流右岸を進とJR常磐線・つくばエクスプレス・東京メトロ日比谷線の三本の鉄橋が架かっている。
全景(写真)が見えるのは隅田川テラスに出てからであり、真下では橋梁の一部しか見えない。

千住汐入大橋 水神大橋 汐入公園 白髭橋
千住汐入大橋は、隅田川が大きく右に蛇行する先端部分から対岸に架かっている。
この橋は平成18年(2006)に架けられ、橋長158m・幅員20mで、橋の名前はかつての 「汐入の渡し」 に由来する。
千住汐入大橋の上下流域
水神大橋は、平成元年(1989)に汐入公園(右岸)と東白髭公園(左岸)を繋ぐ連絡橋として竣工し、橋長は157mである。
水神大橋の橋名は、左岸(東側)にある墨田川神社に由来する。
水神大橋の上下流域。
水神橋の下流右岸は汐入公園から続く遊歩道が整備され、白髭橋の上流100m程の川縁にはユリカモメ・カワウが羽を休めている。 白髭橋は、当初、大正3年(1914)に架けられた木橋であったが、大正15年(1925)に関東大震災の震災復興事業の一環として、鋼橋に架け替えられた。その後、昭和6年(1931)に骨太の永代橋に似た重量感のある橋に架け替えられ、現在に至っている。橋長は168mで、都道306号線(明治通り)が通っている。白髭橋の橋名は、東岸にある白髭神社に由来し、西詰には明治天皇行幸對鷗荘遺蹟碑が建っており、その西側200mほどに平賀源内墓所がある。白髭橋の上下流域。

隅田川テラス 桜橋 隅田公園 言問橋
白髭橋下流の右岸テラスの防潮堤壁には、江戸東京博物館所蔵の 「錦絵」 を利用して、江戸から昭和初期に至るまでの浅草北部地域の文化や町並みが展示されている。 桜橋は、昭和60年(1985)竣工で、橋長169mの隅田川唯一の歩行者専用橋である。
上空から見るとX字形をした美しい橋で、周辺の景観に配慮したものとなっている。
東詰めの上流堤には、石造墨堤常夜灯がああり、その東側道路脇には野口雨情詩碑・墨堤植桜の碑がある。
桜橋の上下流域。
桜橋の右岸(西側)には隅田公園があり、園内に山谷堀に架かっていた今戸橋親柱が保存されている。
この他、言問橋の西詰までの園内各所に竹屋の渡し跡碑、花の碑、子規句碑、秋桜子句碑などがある。
言問橋は、昭和3年(1928)に竣工されたゲルバー橋と呼ばれる、橋長238mの橋で、関東大震災の震災復興事業として架橋された橋である。橋名は、伊勢物語で名高い在原業平の詠んだ 「名にし負はば いざ言問はん都鳥・・」 の一句に縁を持っている。
橋の西詰(隅田公園入口)には、東京大空襲慰霊碑・言問橋縁石などがある。
言問橋の上下流域

牛嶋神社(隅田公園) 東武伊勢崎線 吾妻橋 駒形橋
言問橋の東詰めに牛嶋神社があり、ここから下流に沿って隅田公園が続いている。
園内には、堀辰雄ゆかりの地、水戸徳川邸跡、藤田東湖漢詩碑などがあり、隅田川堤には明治天皇海軍漕艇玉座跡碑などがある。
言問橋と下流の吾妻橋の中間辺りに東武伊勢崎線(東武スカイツリーラインの鉄橋が架かっている。橋の西側にある浅草駅入線の制約上、この橋梁では15㎞程のゆっくりとした運転となる。 吾妻橋は、竹町の渡しがあったところで、安永3年(1774)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていたが、その後、東国・関東地方を総称する 「東」 から 「吾妻橋」 になったという。現在の橋は、橋長150mのアーチ橋で、昭和6年(1931)に架け替えられた。
西詰には浅草駅があり、東京都観光汽船の桟橋も設けられており、隅田川ラインという航路が発着している。吾妻橋の上下流域。
駒形橋は、関東大震災後の復興事業の一環として、昭和2年(1927)に初めて架橋された、橋長149mのアーチ橋である。
橋名は、橋の西詰にある浅草寺に属する駒形堂に由来する。ここは古来より交通の要衝で、「駒形の渡し」 があったところである。江戸の巷説に有名な 「君はいま 駒形あたり ほととぎす」 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂と共に、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
駒形橋の上下流域。

厩橋 隅田川テラス 蔵前橋 水道橋
厩橋は、明治7年(1874)に民間の手により架橋された木橋であったが、老朽化により明治26年(1893)鉄橋に架け替えられた。この鉄橋も関東大震災で被災し、昭和4年(1929)震災復興橋梁として現在の橋に架け替えられた。
橋名は、この付近に有った 「御厩の渡し」 に由来するが、厩はこの一帯に幕府の御米蔵があり、専用の厩があったことからきている。西詰には榧寺があり、墓所に江戸の狂歌師石川正望の墓がある。
厩橋の上下流域。
厩橋下流の右岸隅田川テラスには、歌川国安錦絵・葛飾北斎浮世絵が設置されている。 蔵前橋は、かつて「富士見の渡し」があったところで、昭和2年(1927)に関東大震災の復興事業の一環として架けられた、橋長173mのアーチ橋である。蔵前の名は、幕府の御米蔵があったことに由来し、この御米鞍は元和6年(1620)に大川(隅田川)端を埋め立てて建てられたが、幕末には67棟の蔵が並んでいたという。西詰には浅草御蔵跡碑・首尾の松碑があり、欄干には力士のレリーフが施されている。
蔵前橋の上下流域。
蔵前橋の直ぐ下流に水道橋があり、東京都水道局の水道管と、NTT電話通信線が通っている。

隅田川テラス(右岸) 隅田川テラス(左岸) JR総武本線 両国橋
蔵前橋下流の右岸隅田川テラスの護岸壁は、なまこ壁風の造りであり、壁面には江戸時代、湾岸部を埋め立て市街地造成の 「御手伝普請」 の組頭を勤めた主な大名の家紋が掲示されている。
また、テラスの各所には、安藤広重の錦絵が描かれたプレートが設置されている。
蔵前橋下流の左岸隅田川テラスの護岸壁には、明治時代以前の当時の様子を描写した絵画と墨田区立小中学校の作品が展示されている。 この隅田川橋梁は、総武本線を両国駅から御茶ノ水駅まで延長するために架けられた橋で、橋長172m、昭和7年(1932)の竣工である。
この橋梁の上下流の左岸テラスには、隅田川テラスギャラリーの錦絵が続いており、隅田川添いのパイプ柵には、大相撲の技がレリーフで表現されている。
両国橋は、明暦3年(1657)の 「明暦の大火」 の際には橋がなく、多くの死者が出たことから、その後に架けられたもので、武蔵国と下総国を結ぶ橋であることから、俗に両国橋と呼ばれていた。当初の正式名称は、大橋であったが、元禄6年(1693)に新大橋が架橋されたことから、両国橋が正式名称となった。現在の橋は、昭和7年(1932)に完成し、当時は言問橋・天満橋と共に三大ゲルバー橋と呼ばれた最先端の橋であった。
両国橋の上下流域。

首都高速両国大橋 新大橋 芭蕉庵史跡展望庭園 清洲橋
両国大橋は、首都高速6号向島線と首都高速7号小松川線が合流する両国ジャンクションとなっている。
両国大橋付近の右岸隅田川テラス護岸壁には錦絵が貼られ、左岸隅田川テラス護岸壁には墨田区立小中学校の作品が展示されている。
新大橋は、元禄6年(1694)に徳川綱吉によって架橋されたのが創めで、両国橋を大橋と呼んでいたいたことから、新大橋と命名された。その後、明治45年(1912)に隅田川で最初の鉄骨橋として架け替えられ、現在の橋は昭和52年(1977)に架けられた橋長170mの2径間連続斜張である。橋の中央柱には、かつての新大橋のレリーフが貼られ、東詰めには旧大橋の親柱が保存されている。
新大橋の上下流域。
新大橋の下流左岸の隅田川テラスに芭蕉句碑が並び、萬年橋近くの護岸壁の上に芭蕉庵史跡展望庭園がある。
ここから下流に青い清洲橋が見える。
清洲橋は、関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋で、昭和3年(1928)に竣工され、当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしている。
清洲橋の上下流域。

隅田川大橋 永代橋 中央大橋 相生橋
隅田川大橋は、昭和54年(1979)に首都高速9号深川線の建設に合わせて架橋されたもので、翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通した。
隅田川大橋の上下流域。
永代橋は、元禄11年(1698)に関東郡代伊奈氏が日本橋と深川を結ぶ橋として創架し、左岸の永代島に架けられたので永代橋とも、架橋日が将軍綱吉50歳の誕生日であったので慶賀の名前が付けられたともいわれている。元禄15年(1702)の赤穂浪士討ち入りでは、討ち入り後に吉良上野介の首を掲げて、47士がこの永代橋を通り泉岳寺に向かった。
永代橋の上下流域
中央大橋は、平成5年(1993)に架橋された新しい橋で、高層ビルが立ち並ぶ佃地区と、都心を結ぶ橋として計画された。形式は近代的な街並みにマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっている。
中央大橋の上下流域。
相生橋は、隅田川派川に架かる橋で、明治36年(1903)に交通の便と月島に水道を導くために架けられた。橋の名前は、永代橋に相対する橋として名付けられた。その後、東京湾に埋立地が造成されるとともに、勝鬨橋・佃大橋などが架けられ、名前もその意味を失っている。
相生橋の上下流域。

佃大橋 勝鬨橋 築地大橋
佃大橋は、佃の渡しのあった位置に架けられた橋で、昭和39年(1964)に永代橋・勝鬨橋の交通量の増加に伴って、戦後初めて墨田川に架橋されたものであり、橋長は下流に架かる橋ということもあり、476mの長さがある。
佃大橋の上下流域。
勝鬨橋の架かるこの地は、築地と月島の間を渡す渡船場が、明治38年(1905)の日露戦争での戦勝を記念して 「勝鬨の渡し」 として設置されたところである。その後、昭和4年(1929)に架橋が計画され、大型船が通航できるように、シカゴの双葉跳開橋にならって可動橋(跳開橋)とし、昭和15年(1940)に開通した。現在は、大型船の通航もなくなり、交通渋滞緩和のため、開かずの橋となっている。
勝鬨橋の上下流域。
築地大橋は、隅田川の最下流に架かる橋で、当初の計画では、豊洲新市場が開場する予定だった平成28年12月に暫定開通する予定だったが、未だ未開通の状態で工事が進められている。
東詰めの清住通りにある東陽院前には十返舎一九の墓があり、西詰にある築地市場の脇には波除稲荷神社がある。
隅田川は築地大橋で終了

東京ゲートブリッジ レインボーブリッジ
隅田川が東京湾に流れ込んだその先に位置する台場・若洲地区にあるレインボーブリッジと東京ゲートブリッジも歩いてみました。 東京ゲートブリッジは、平成14年(2002)に事業着手され、平成24年(2012)に完成した橋で、橋長2,618m(陸上アプローチ橋含む)あり、海上部分は1,618mある。
東詰めの若洲臨海公園側から昇降タワーで8階まで上がって行くが、西側の中央防波堤側に降りられないため、引き返す必要がある。
橋上からは、東京湾が一望でき、天気が良ければ富士山もよく見える。
レインボーブリッジは、正式名称を東京湾連絡橋といい、昭和62年(1987)に着工し、平成5年(1993)に完成した鉄道道路併用橋である。
上層部に首都高速道路が走り、下層部に鉄道ゆりかもめと一般道路、その両側に歩道がある。西側は芝浦ふ頭から、東側は台場公園から歩道入口がある。
歩道は、ノースルートとサウスルートがあり、それぞれ違った景色が楽しめ、日没後にはライトアップが行われている。