明治遷都後初の宮中花見時の明治天皇御詠歌

旧水戸徳川邸日本庭園(当時は汐入の池)

明治天皇行幸所水戸徳川邸舊址碑

 堀辰雄は明治37年(1904)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。2歳の時、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島3丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治41年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町32番地で暮らし始めます。
 更にその2年後には大水の影響で新小梅町2ノ4に移り、ここから牛島尋常小学校に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正13年(1924)4月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町8番地に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和13年(1938)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関―辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎掛けをかけた石の牛が一ぴき臥ていた。私はそのどこかメランコリックな眼差しをした牛が大変好きだった。」(「幼少時代」)とあるのは、牛嶋神社境内の撫牛のことです。
 昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和28年(1953)に没しました。
  墨田区教育委員会

明治天皇海軍漕艇天覧玉座址の碑

藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑

俳人富田木歩終焉の地碑

 二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林ニ峯のことです。ニ峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治30年(1897)8月16日にニ峯が没した翌年の3月、円通寺(押上ニ)に建碑され、のちに現在地に移設されました。ニ峯は文政2年(1819)9月3日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名のニ山にちなみニ峯と号しました。幼少より書の才を現し、天保14年(1843)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、ニ峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。ニ峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。
 碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「ニ峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
 建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京芸術大学)創立者の一人で、ニ峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は11歳でニ峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、ニ峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名もみられます。
  墨田区教育委員会

ニ峯先生之碑解説

ニ峯先生之碑

堀辰雄ゆかりの地解説