十返舎一九は、本姓を重田といい、明和2年(1765)駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となった。
 天保2年(1832)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。
 墓石には次の辞世が刻んである。
  此世をば どりやお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら
 墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして、中央区民文化財に登録されている。
 平成4年 中央区教育委員会

 江戸時代に東都名物都伝えられた雄の大獅子(天井大獅子)が平成2年に再興され、更に9年に木の収縮を待ち85年ぶりに担いでの大獅子巡行が復活し、雌の大獅子も平成14年の本祭りに、此れもまた名物で在りました「お歯黒獅子」として高さ1.8m・幅2.5m、重さ約700キロの朱塗りに歯に鉄をさした艶やかな姿を表しました。
 此のお歯黒獅子の雌を表す宝珠の角の内に江戸期の神社御創建と時同じくして境内社にお奉りされておりました市杵島姫命、いわゆる弁財天の御神像をこの慶事に古に習い紫水晶を御霊として抱く姿の木彫座像で新調されて納められました。また担ぎます時の見返り幕も弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました。

築地場外市場にある波除稲荷神社

東詰めの清住通りにある東陽院前に建つ十辺舎一九の墓

雌の大獅子「弁財天・お歯黒獅子」

 波除稲荷神社の創建は、万治年間(1658-61)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。
 波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(1848)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年6月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁財天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。
 また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保9年(1838)に奉納したものです。江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える、貴重な文化財です。
 平成22年3月 中央区教育委員会

上流左岸の隅田川テラスから見た築地大橋

下流左岸から見た築地大橋

浜離宮恩賜庭園から見た築地大橋