ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

 隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第一次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。
  台東区

東京大空襲慰霊碑

言問橋の縁石

慰霊碑解説

 橋の名は、伊勢物語の中心人物、在原業平の詠んだ「名にしおはば いざ言問はん都鳥 我が想う人は ありやなしやと」から名付けられた「言問団子」に因ると言われている。
 架橋は昭和3年(1928)。墨田区では両国、蔵前、厩、駒形、吾妻の5橋とともに関東大震災の復興橋梁として工事が進められ、完成に伴い上流にあった向島三囲神社と浅草待乳山聖天をつなぐ「竹屋の渡し」が廃止されている。
 当初は両国橋とともに長大な鋼ゲルバー桁橋として偉容を誇ったが、近年は200mを超す大橋が多く目立たなくなった。とはいえ当時の新進気鋭の技士たちが最先端の技術を駆使して設計施工しただけに文化的価値が高く、平成20年(2008)に両国橋とともに東京都選定歴史的建造物になっている。
 昭和20年(1945)3月10日の大空襲では、両岸から避難民が押し寄せ、多くの犠牲者が出た。平成4年(1992)から実施された改修工事で欄干と縁石が取り外され、その一部が江戸東京博物館の屋外通路に保存展示されている。

言問橋下流域

言問橋上流域

言問橋の東渡詰めに東京スカイツリーが見える

言問橋(ことといばし)橋標

下流に東武スカイツリーラインの鉄橋が見える

左岸は隅田公園で、上流に桜橋が見えている

下流右岸(西側)から見た言問橋

言問橋解説

言問橋橋上