野口雨情詩碑

    都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る
 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童話民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謠集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
  墨田区

 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく)、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、同11年には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々墨田村の名主阪田氏が担当しました。その後、文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁、中山卜鄰が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200本余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鷗社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
  墨田区

 石造墨堤永代常夜燈は、高さ5mを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
 東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子17名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治4年(1871の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
 設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことが窺われます。発起人17名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
 この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成28年7月21日、墨田区指定文化財に指定されました。
  墨田区教育委員会

瑞鶴の図・双鶴飛天の図 (原画平山郁夫・彫刻細井良雄)

桜橋上流域

桜橋下流域

桜橋(さくらばし)橋標

墨堤植桜の碑

墨堤埴桜の碑解説

石造墨堤永代常夜燈解説

橋上の桜橋架橋10周年記念碑

明治4年(1871)の石造墨堤永代常夜燈

下流左岸(東側)から見た桜橋

下流右岸(西側)から見た桜橋

上空から見た桜橋