元禄6年(1693)の観世音菩薩

不動明王

享保8年(1723)の観世音菩薩

正徳2年(1712)の地蔵菩薩

 馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久7丁目3612番地、3484番地あたり(西方50mのところ)と推定される。平成12年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石造物がここに移設された。
 かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
 この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重用された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐令では、解体後の丁重な埋納が求められた。
 明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びて行くようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保12年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また、開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永15年(1638)12月8日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
 荒川区教育委員会

尾久橋下流の右岸テラス

餌をあげる人に群がるカモメとハト

上尾久村の馬捨場跡解説

竹駒稲荷神社

享保17年(1732)の地蔵菩薩

天保12年(1841)の馬頭観世音

元禄8年(1695)の観世音菩薩