昭和17年(1942)4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4か月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町8・9丁目(現在の尾久橋付近)で、12時20分頃、ドーリットル隊の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。
 「荒川区史」所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10m、深さ5mもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。
 この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。
 荒川区教育委員会

南詰の下流テラスは一部整備中

南詰の上流テラスは整備中

尾久橋に並行して走る日暮里舎人ライナー

尾久橋上流域

尾久橋下流域

下流右岸から見た尾久橋

上流左岸から見た尾久橋

下流は両岸に隅田川テラスがあり、川面に沿って歩くことができる。

上流には小台橋が見えている。

尾久橋(おぐばし)橋標

南詰の尾久橋通り沿いにある東京初空襲の地