赤穂47士の一人大高源吾子葉は、俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として俳界の友でありました。元禄15年12月14日討入本懐を遂げた義士達が永代橋(差し掛かるやあたかも当所乳熊屋味噌店の上棟の日に当り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒を振る舞ひ労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。
昭和38年2月 ちくま味噌16代竹口作兵衛
内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月、この地に商船学校を開設させた。
当初の教育はそのころ隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来100年、ここに端を発した商船教育の成果は、わが国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷を経た今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
昭和r50年11月 東京都中央区教育委員会
西詰の船員教育発祥之地碑
東詰めにある赤穂義士休息の地碑
永代橋橋上
下流右岸の隅田川テラスから見た永代橋
下流左岸の隅田川テラスから見た永代橋
永代橋上流域
永代橋下流域
豊海橋北詰めの日本銀行創業の地碑
上流右岸の日本橋川に架かる豊海橋から見た永代橋
上流右岸の日本橋川に架かる豊海橋
上流に隅田川大橋が見えている
下流の高層ビルの建つ所で隅田川本流は右に流れ、左へ隅田川派川となり豊洲運河に分かれる。
永代橋(えいたいばし)橋標