清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣工した。
清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋台に碇着し全支間にわたって等間隔に配された吊材で吊鎖と主桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。
清洲橋の名は、深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の新設にあたって公募されたものである。
深川の清澄町は、わが国セメント工場の発祥の地であり庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。日本橋中洲町は、明和8年(1771)に埋め立てを開始して、隅田川畔の繁栄の一翼を担った。その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど、複雑な歴史をもつが、明治19年(1886)に再び埋立てられ新しい土地として生まれ変わった。この二つの町を「中洲の渡し」が結んできたが、大震災後の復興事業で、ドイツのケルンの大吊橋に範をとって、女性的な曲線美をもつ吊橋をかけることとなり、昭和3年(1928)、この橋は完成した。第二次世界大戦で、ケルンの橋は爆破されてなくなったが清洲橋は東京大空襲の中でも、多くの被爆者を救って、幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
昭和58年2月 東京都
清洲橋橋上
下流右岸の隅田川テラスから見た清洲橋
下流左岸の隅田川テラスから見た清洲橋
清洲橋上流域
清洲橋下流域
いかならむ 時にあふとも 人はみな 誠の道を ふめとをしへよ
清洲橋東詰めにある明治維新百年記念碑(明治天皇御製)
清洲橋西詰にある清洲橋碑
清洲橋西詰にある清洲橋解説碑
下流に首都高速9号深川線と一体となった隅田川大橋が見えている
上流左手に新大橋が見え、右手に東京スカイツリーが見えている
清洲橋(きよすばし)橋標