松尾芭蕉は、延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1693)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」 の前書きで 「川上とこの川下や月の友」 の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」 の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友のことを想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番小名木川沿い) とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」 として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。

ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番所小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草案の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)に至る15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活の繰り返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年冬から、天和2年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
  (以下略)

小名木川五本松と芭蕉の句

深川芭蕉庵

元禄6年(1693)吟

延宝8年(1680)吟

しばの戸に ちゃをこの葉かく あらし哉

天和元年(1681)吟

芭蕉野分して 盥(たらい)に雨を 聞夜哉

天和3年(1683)吟

元禄6年(1693)吟

貞享4年(1687)吟

元禄5年(1692)吟

郭公(ほととぎす) 声横たふや 水の上

名月や 門に指くる 潮頭(しおかしら)

みな出て 橋をいただく 霜路哉

元禄5年(1692)吟

貞享3年(1686)吟

元禄6年(1693)吟

芭蕉庵史跡展望庭園にある芭蕉像

あられ きくや この身はもとの ふる柏

隅田川に注ぎ込む小名木川に架かる萬年橋

川上と この川下や 月の友

花の雲 鐘は上野か 浅草歟(か)

芭蕉葉を 柱にかけん 庵の月

名月や 池をめぐりて 夜もすがら