この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
 荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
 台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者である青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木工事は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。

 荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が隣接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するために造られたものです。

荒川放水路完成記念碑

船堀閘門頭頂部

京成押上線旧荒川橋梁基礎杭

 京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2,224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。
 この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和30年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため昭和50年代から架け替え計画が策定されていましたが、平成3年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成11年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。