平賀源内は、享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年は諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で、名は国倫。源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などを行い、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・
福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神雲矢口渡」などの作品を残している。
 安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で12月18日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日智見霊雄居士平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
 総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和4年(1929)に東京府史跡に仮指定され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年に国指定史跡となった。  (台東区教育委員会)

平賀源内の墓

平賀源内解説

平賀源内墓所入口

 隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(1837-91)の別邸であった。
 「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年12月19日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。
 隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3m余。側面に「昭和6年歳次辛末5月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。
 対鷗荘は、昭和3年(1928)、白髭橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
  台東区教育委員会

対鷗荘は白髭橋西詰の地に明治6年(1873)、明治の元勲三条実美の別邸として建築された。
   いそがしき つとめのひまを
   ぬすみ来て 橋場の里の 月を見るかな
 三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。
 橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。
  荒川区教育委員会

 対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160mの渡しで、「白髭の渡し」 とも言われていた。
 「江戸名所図会」 によると、古くは 「隅田川の渡し」 と呼ばれ、「伊勢物語」 の在原業平が渡河した渡しであるとしている。
 しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。
 大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。
  荒川区教育委員会

白髭橋碑

対鷗荘跡解説

対鷗荘解説

白髭橋上流域

白髭橋橋上

白髭橋下流域

明治天皇行幸對鷗荘遺蹟碑

下流から見た白髭橋

橋場の渡し解説