首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木のことです。江戸時代は、吉原で舟で行くことが粋とされ、吉原帰りの客が昨晩の首尾(物事のなりゆき、結果)を思い出す所、吉原に向かう客が今宵の首尾を思い描く所でした。また、吉原往還の目印のほか、釣りの穴場としても有名でした。
このほか、浮世絵には大川の対岸に瓦屋根を葺いた平戸新田藩の上屋敷(現同愛記念病院)の椎の巨木が描かれています。また、左の絵の松の枝辺りには、入堀に架かる石原橋や辻番屋、三河国拳母藩内藤家の下屋敷も描かれています。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
左の絵の句は。美しい松と釣りをする美しい女性を掛けた句となっています。
右の絵の句は、椎の巨木に蝉が往く夏を惜しむように鳴いている様子を詠っています。
美し佐松者千と世越延あ可里 延阿可り見類舟能たをやめ
(美しさ松は千歳を延上がり 延上がり見る舟の女)
時ま多記見あくる椎乃青空に とこ路定め須蝉の志くるゝ
(時跨ぎ見上げる椎の青空に 所定めず蝉のしぐるる)
現在の厩橋は江戸時代には無く、渡し舟により人々が行き来していました。
この浮世絵では、御厩川岸の渡しと呼ばれた風景を描写しています。対岸は本所荒井町・番場町あたりで、手前は浅草黒松町か諏訪町となります。渡し舟は後から乘った人から先に降りなければならず、1艘はこれから本所側を離れようとし、手前の舟は間もなく浅草側に到着しそうな情景となっています。
この渡しの目印は榧寺の盆名物の高燈籠で、仏となった者は燈籠を目印に帰ってくることから高く掲げた方が良いとされていました。御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆することもあったため、別名「三途の渡し」と呼ばれていたようです。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
右の絵の句は。目印となった高燈籠を詠み、左の絵の句は、渡し舟の様子を詠っています。
志けりあふ色も萌黄能かや寺に 火燭と見ゆる燈籠乃影
(繁りあう色も萌黄の榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影)
ろ能おとに雁こきませてわ多し舩 あとの可先へあかるのり合
(櫓の音に雁こき混ぜて渡し船 後のが先へ上がる乗合)
この錦絵は、文政7年(1824)の春に、御蔵前八幡宮(現蔵前神社、旧石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794-1832)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この浮世絵が描かれた頃に絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。左の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵の中に当時の日本酒n銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら3枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、天保4年(1833)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院、深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられ、なかでも天明2年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎとなりました。
御蔵前八幡宮二於而 奉納力持
榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合
首尾の松の鉤船 椎木の夕蝉