春のうららの隅田川
   のぼりくだりの舟人が
 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲 「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年11月3日、その教え子たちで結成された 「武島羽衣先生歌碑研究会」 によって建立された。
 武島羽衣は、明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校(現東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授・滝廉太郎とともに 「花」 を完成した。羽衣28歳、廉太郎21歳の時であった。
 滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに 「荒城の月」、「鳩ぽっぽ」 などがある。「花」 完成の3年後、明治36年6月29日、24歳の生涯を閉じた。
 武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年2月3日、94歳で没した。
 手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川
その情景は、歌曲 「花」 により、今なお多くの人々に親しまれ、歌い継がれている。
 台東区教育委員会

羽子板や 子はまぼろしの すみだ川

水原秋桜子 本名豊 1892年 東京神田に生まれる
東京帝国大学医学部卒 宮内省侍医寮御用掛
馬酔木主宰 日本芸術院会員 俳人協会会長 1981年歿

春のうららの すみだ河
のぼりくだりの ふな人が
かいのしずくも 花とちる
眺めをなにに たとふへき
見ずやあけほの 露あびて
われにものいふ さくら木を
みずやゆふくれ 手をのへて
われさしまねく あを柳を
錦おりなす 長堤に
暮るれば昇る おぼろ月
けに一刻も 千金の
ながめをなにに たとふへき
  明石詠並書

花の碑

花の碑解説

正岡子規句碑

雪の日の 隅田は青く 都鳥

 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治40年刊「東京案内」には「竹屋の渡」とあり、同年発行「東京市浅草全図」では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。
 「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818-30)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文字や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
 昭和3年言問橋の架橋にともない、渡し舟は廃止された。
  台東区教育委員会

今戸橋解説

昭和49年(1974)の今戸橋

今戸橋親柱

秋桜子解説碑

秋桜子句碑

平成中村座発祥の地碑

竹屋の渡し跡碑

竹屋の渡し解説

 今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記録が残っています。
 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などと言ったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。
 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀埋め立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となりました。