榧寺は、浄土宗の寺院で天正年間(1573-91)から草庵として創始され、慶長4年(1599)に増上寺中興開山の観智国師法名貞蓮社源上人が開山したという。

 石川雅望(1753-1830)は江戸後期の国学者、狂歌師である。旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師石川豊信の子として生まれ、六樹園、五老斎などと号した。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といった。天明年間に狂歌檀に台頭し、狂歌四天王に数えられる、「源註余滴」や「雅言集覧」を著し、「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌撰集の他「草まくら」などの紀行文もあった。

 江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、代わりに各所に「渡し舟」がありました。ここには「うまやの渡し」があり、多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。

厩の渡し跡

石川雅望の墓

榧寺本堂

西詰のオブジェ風のトイレ

水道管が通る厩橋下

東詰めの厩地蔵尊

厩橋上流域

厩橋下流域

下流に蔵前橋が見えている。

上流に駒形橋が見え、手前に屋形船の桟橋が有る。

厩橋(うまやばし)親柱・橋標

厩橋橋上

下流右岸(西側)から見た厩橋

上流左岸(東側)から見た厩橋