黒田孝富遺剣之碑
伊勢亀山城は、文永2年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。
天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については、「九々五集」に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでなない。
寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。
亀山城の別名については唯一の出典である「九々五集」に姫垣を意味する「粉蝶城」と記されている。
城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる。
明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているにすぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。 亀山市教育委員会
明治天皇は、明治13年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅、現市民協働センター「みらい」所在地)を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたものです。
建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、同14年三重県史跡に指定されました。同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。
なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。
明治天皇亀山行在所遺構
伊勢亀山城解説
多門櫓と城郭石垣
黒田孝冨は、通称頑一郎。天保5年(1834)亀山藩士黒田嘉治の子に生まれ、家老近藤織部(鐸山)の抜擢を受けて広間役となった。その後、江戸にて儒学を学び、尊王攘夷を説いた。
飯沼慾斎は、天明3年(1783)に伊勢国鈴鹿郡の亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となった。その後、京都にて医学を修行し、後に江戸へ出て蘭学を学び蘭方医となる。
近藤幸殖は、文化10年(1813)亀山に生まれ、名は幸殖、字は子殖、号は鐸山と称した。佐々木弘綱、井上文雄、藤森弘庵らと交わり、嘉永3年(1850)家老職に就いた。その後、明治2年(1869)亀山藩大参事に任じられた。
史跡亀山城址碑
飯沼慾斎生誕之地碑
鐸山近藤君碑