妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任元禄元年~宝永6年)の義母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。境内西にある墓地には、「赤堀水之助墓」(市史跡昭和16年指定)、及び「山本善太郎墓」(市史跡昭和26年指定)がある。

 山本善太は、阿波(現徳島県)の生まれで、天保2年(1831)32歳のとき亀山藩主石川総安公(在任文政3年~天保4年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」など多くの著書を残したが、天保8年(1837)7月、38歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。その子一学(退蔵)、孫三省も明倫舎の教授を引き継ぎ、親子三代で石川家の儒臣として仕えた。

 赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が29年目にしてようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の敵討ち」として著名になり、敵討ちが行われた石坂門には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が建てられた。

慈眼寺と刻まれた石燈籠

西国第一番那智山の如意輪観音

日蓮大菩薩

元禄13年(1700)の南無妙法蓮華経題目碑 (慈眼寺にあったもの)

幡間山慈眼寺と刻まれた手水石

東海道五十三次之内亀山「雪晴」

照光寺山門

本堂に掛かる妙亀山の扁額

照光寺本堂

梵鐘の無い鐘楼

照光寺東下の竜川より望む京口門の勝景
旧東海道の京口坂は、大正時代半までその面影を留めていた。

明治10年廃寺となった元末寺慈眼寺のもの

山本善太墓

照光寺の文化財解説

赤堀水之助墓