東の追分解説

 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に 「鈴鹿関」 が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。 古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ (東海道宿村大概帳) 鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
  ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。
 江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60km)と刻まれています。

一里塚址碑

元文5年(1740)の常夜燈

竿石に 「大阪津国屋重右衛門、江戸嶋屋佐右衛門」 と刻まれている。