亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正8年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も上げられていたとされます。
寛永13年(1636)本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。
西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校 「明倫舎」 も置かれました。
この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でもありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。
この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60㎝程度でした。この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急勾配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。
なお、工事に当たり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。
亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓および二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡、旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。
このことから、市では、平成20年12月に 「亀山市歴史的風致維持向上計画」 を策定して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。
亀山城西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3か年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたとされます。
江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土堀りの空堀か水堀であったと推測されます。また、天保3年(1823)から10年の間に西之丸外堀の改修が行われた記録が残っています。
今回西之丸外堀復元に伴い平成21年度に行った発掘調査で、外堀の基礎とみられる構造体が確認されました。また、同年実施の亀山中学校改築工事に伴う西之丸発掘調査においても、同様の外堀基礎構造体が確認され、外堀の築造方法が明らかになりました。ここでは、比較的遣り具合のよかった亀山中学校内で確認された例をもとに説明します。
{堀の築造方法}略
亀山城西之丸と外堀説明
復元された西之丸外堀
西之丸外堀築造技術説明