遠く延暦の昔、大和の人紀真竜石ノ上布留の神を信仰し、その神託に因り、紀伊の国那智の神を此処に勧請して熊野社を創建せりと云う。
此処は足利時代、新熊野権現と称し別格の社格を以て南朝後村上天皇より、当社の別当たりし那智山石上寺の僧和田大輔房資盛へ御論旨及び将軍家より御奉書等下されたる事あり。昔時、官民の崇敬篤く、此社の大社なる事確実なり、その後、天文・弘治・永禄の兵乱に遭遇し衰微せり。往時、和田に大火ありし時、尾張の国津島神社より火伏せの神牛頭天王を此処に勧請して合祀せり、これ天王祭の起り、元禄及び享保年代の古文書にて氏神として牛頭天王並びに熊野権現を祀り、宮域東西70間、南北40間に及ぶとの記録あり。
その後、頭書の三祭神を祀りしものにして前回明治9年11月造営より実に100年の星霜を経て、昭和50年10月に現社殿及び拝殿を造営したるものなり。
和田神社本殿
拝殿内部
和田神社拝殿
平成27年の真新しい鳥居
拝殿は坂になった参道の正面にある
和田神社由緒