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東海道   (二川~赤坂)


平成29年3月11日(土)   ☀|☁   二川~赤坂  21.0㎞
本日は、二川宿の外れの火打坂交差点からのスタートとなる。岩屋山を回るように進んで、国道1号線に出て暫くすると吉田宿(豊橋市街)に入って行く。豊川を越えて御油に入ると連子格子の家や松並木が残る趣ある街道となる。

岩屋山 火打坂 松並木 清晨寺
火打坂交差点から左手に標高113mの岩屋山があり、頂上に展望台が見えている。 火打坂は、それほど急な坂ではないが、火打坂交差点から600m程の坂道である。
坂の名前は、岩屋山から産出する火打石に由来する。
岩屋山を回り込んで、幾分下り坂になった先に最近植えられた松並木がある。
この場所は、かつて東海道の松並木があったところで、最後の黒松があった場所には 「旧東海道のクロマツ跡」 碑が建っている。
松並木を過ぎて、やや広い東三河環状線を渡ると、右手に曹洞宗の日暁山清晨寺がある。
清晨寺の創建年代等は不詳であるが、清楚な寺で境内には小さな地蔵堂がある。

殿田橋 飯村一里塚跡 中山橋 七富士稲荷大明神
街道をどんどん進んで行くと、国道1号線に合流する手前に殿田川に架かる殿田橋がある。
殿田川は、下流で北を流れる中山川と合流して柳生川となる。
殿田橋を渡って街道が国道1号線と合流する直前の三角地帯に、飯村一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて、73里目の一里塚である。
国道1号線を進むと中山川に架かる中山橋がある。
中山川は、下流の豊橋市三ノ輪町で南を流れる殿田川と合流して柳生川となる。
中山橋を渡って間もなく、左手に七富士稲荷大明神がある。
創建年代等由緒は、、全く不明である。

白山神社 神明社 寿泉寺 不動院
七富士稲荷大明神の先の横断歩道協を渡って、右手の路地を入ると白山神社がある。
白山神社は、弘仁8年(817)の創建と伝えられ、かつては白山権現と称していたという。
境内には、猿田彦社・鶴の宮社・神明社などを合祀した境内社と 「せんきの神」 という珍しい境内社がある。
街道に戻って、伝馬町交差点を過ぎ、円六橋交差点の先の横断歩道橋の右手(北)の路地を進むと神明神社がある。
神明神社は、寛文2年(1662)瓦町村の鎮守として神明宮を建立したのが始まりという。
境内には、琴平神社・猿田彦神社・秋葉神社・津島神社が合祀された境内社のほか、山之神社がある。
街道に戻ると、直ぐ先の瓦町交差点の右手に臨済宗妙心寺派の鶴松山寿泉寺がある。
寿泉寺の創建年代は不詳であるが、桂昌寺の松山和尚が長松山太平寺(現:老津町)の末寺として開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し、元禄6年(1693)寿千寺となり、正徳5年(1715)瓦町の火災のあと寿泉寺と改めた。
境内には、薬師瑠璃光如来を祀った三重塔がある。
寿泉寺の直ぐ先に不動院がある。
不動院は幼稚園の敷地内にあり、門が閉ざされていたため中に入ることは出来なかった。
門前に解説があり、この不動院は吉田藩主小笠原公をはじめ歴代吉田藩主の尊崇を集め、藩の重要な祈祷を担当する祈願所であった。元禄12年(1699)時の吉田藩主久世重之公から山号・寺号の免許を受け、聖休山任養寺不動院と名乗ることとなった。

願成寺 秋葉山常夜燈 東惣門 造立稲荷大明神
不動院から30m程先に真宗高田派の願成寺がある。
願成寺の創建年代等は不詳である。
境内はすっきとして何もないが、かつては豊橋電灯株式会社を設立した豊橋町初代町長の三浦碧水の青銅製の胸像があった。この胸像は太平洋戦争のため供出されてしまった。
東八町交差点の五叉路の右側に大きな秋葉山常夜燈が建っている。
かつてここには文化2年(1805)の常夜燈があったが、昭和19年(1944)の三河地震による倒壊とそれに続く戦火に遭って放置されてきた。このため平成13年の東海道宿駅制度400周年の節目の年に復元された。
秋葉山常夜燈の交差点を挟んだ向かい側に東惣門のモニュメントがある。
東惣門は、鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣掘西で東海道に跨って、南向きに建てられていた。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり、門外の西側に駒寄場11間があった。惣門は朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間の通行は禁止されていた
東惣門のモニュメントから街道はクランク状になり、南に進んだ右手一本目の路地を曲がり、その先の左手二本目の路地を曲がると、右手に造立稲荷大明神がある。

談合神社 曲尺手門跡 吉田城 龍拈(りゅうねん)寺
造立稲荷大明神の先を右折して進み、左手一本目の路地を入っていくと談合神社がある。
談合神社は、永正年間(1504-20)の創建と伝えられ、祭神は天照皇大神・高皇産霊命・忍穂耳命・瓊瓊杵命・千々姫命である。
境内には猿田彦神社と天神社・金比羅社・稲荷神社・伊雑神社・秋葉神社・津島神社を合祀した境内社がある。
街道に戻って進むと、中央分離帯のある幅広の道路があり、分離帯の中に曲尺手(かねんて)門跡碑が建っている。
曲尺手とは、城の出入口、または宿場内の街道を鍵の手のように曲がりくねって敵の侵入を妨げたもので、曲尺手町として今でも地名が残っている。
曲尺手門跡の通りを北に進むと吉田城跡がある。吉田城は、はじめ今橋城と言われ、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返し、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。
この城の背後には豊川が流れ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した造りとなっている。
街道に戻って中央分離帯の道路の先に進み、最初の十字路を左折してやや広い通りに出ると、その左側(南側)に曹洞宗の吉田山龍拈寺がある。
龍拈寺は、大永元年(1521)吉田城主牧野信成が父牧野古白の菩提を弔うために建立した。
山門は、豊橋市指定有形文化財となっており、境内には薬師堂があり、墓地の一角に大楠が立っている。

金刀比羅神社 問屋場跡 吉田宿本陣跡 安海熊野神社
龍拈寺の西側にある十字路角に金刀比羅神社がある。
境内にある社標によると、文政元年(1818)讃岐本宮より勧請した。
街道に戻って進むと、路面電車の通る田原街道の手前右手のNTT西日本ビルの前に吉田宿問屋場跡がある。 田原街道を横断して間もなく右手のうなぎ料理店 「丸よ」 の前に吉田宿本陣跡がある。
吉田宿の本陣は、享和2年(1802)の書上によると、宿の中央部にあたり、東海道筋で最もにぎわった札木町のこの地に、建坪327坪(約1,080㎡)の清須屋与右衛門と建坪196.5坪(約648㎡)の江戸屋新右衛門の二軒が並んであった。
吉田宿本陣跡の斜向かいの路地を入って行くと、右手に安海熊野神社がある。
安海熊野神社は、保延2年(1136)の創建で、漁船の安全祈願を条件に境内で魚売買が行われた豊橋の魚市場発祥の地である。
ここには吉田藩主・大河内松平家に伝来した熊・狂言面と装束が所蔵されている。

神宮寺 妙円寺 吉田宿脇本陣跡 吉田宿碑
安海熊野神社の先を更に進むと、東側に天台宗の寿命院白雲山神宮寺がある。
神宮寺は、慶長元年(1596)廃寺となっていた禅宗寺院の長禅寺を再建して開山し、神宮寺と称して天台宗に改めた。
本尊は大日如来で、境内には延命地蔵・身代り地蔵と呼ばれる地蔵菩薩坐像を安置した地蔵堂がある。
神宮寺の西側に通りを隔てて顕本法華宗の妙円寺がある。
妙円寺の創建年代等は不詳であるが、境内には鉄筋コンクリート造の鐘楼があり、参道口には南無妙法蓮華経題目碑などの石造物がある。
街道に戻ると、吉田宿本陣跡の斜向かいにあたる小間歯科医院のところに吉田宿脇本陣跡がある。
ここは桝屋鈴木庄七郎の建物があったところである。
街道を先に進むと、松葉公園前の交差点左側に東海道吉田宿碑が建っている。
碑には、「江戸まで73里、京まで52里」 と刻まれており、街道はここを左(北)に折れて上伝馬町に入って行く。

西惣門 賢養院 吉田神社 芭蕉句碑
上伝馬町に入って国道23号線と交差するところに西惣門のモニュメントが建っている。
西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にあった。惣門の左側に番所があり、12畳の上番所、8畳の下番所、4坪の勝手があり、さらに駒寄の空地17坪があった。
西惣門は、湖西市鷲津の本興寺惣門を参考にして作成された。
国道23号線を渡った右手筋を入ると曹洞宗の天王山賢養院がある。
賢養院の創建年代等は不詳であるが、墓地には江戸時代の豊橋を代表する俳人・五束斎木朶(ごそくさいもくだ)の墓碑がある。
この右隣に 関の小萬の墓もある。
賢養院の前の筋を更に東に進むと吉田神社がある。
吉田神社の創建年代等は不詳であるが、古くは牛頭天王・吉田天王社と呼ばれ、祭神は素盞嗚命である。毎年7月に行われる祇園祭では花火が打ち上げられ、手筒花火発祥の地として知られている。境内には、明治3年1870)に合祀した城守護五ヶ所稲荷社と城守護金柑丸稲荷社がある。
吉田神社から街道に戻って、豊川に突き当たる手前の信号交差点を左折すると、湊町公園の入口に平成13年の東海道53次宿駅制定400年を記念して建てられた芭蕉句碑が建っている。
句碑には、「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」、「ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」 と刻まれている。

湊神明社 湊築島弁天社 吉田湊跡 豊橋
湊町公園に入ると左手に湊神明社がある。
湊神明社は、白鳳元年(672)創建と伝えられ、元和年間(1615-24)に始まり、吉田城下最大の祭りと云われた伊勢神宮に御衣(絹)を献上する 「御衣祭」 が今も行われている。
境内には、八幡大神・秋葉大神・御鍬大神・素盞嗚大神など多くの神を祀った境内社と隣の池の中に湊築島弁財天がある。
神明神社境内にある池の築島に湊築島弁天社がある。
湊築島弁天社は、戦国時代に琵琶湖の竹生島から弁財天を勧請し、天和3年(1683)に神明社境内に建立されたことに始まるという。
築島には、芭蕉が貞享4年(1678)吉田宿に泊った時に詠んだ句碑がある。
船町交差点を右折して豊橋南詰に出ると、左手の堤防脇に船着場のあった吉田湊跡がある。
ここには大正5年(1916)の旧豊橋親柱が保存されている。
豊川に架かる豊橋は、かつては今橋と言い、鎌倉時代の貞応3年(1224)に初めて架橋された。
江戸時代には、江戸と京を結ぶ東海道の指折りの大橋で、幕府の直轄の天下橋であった。
現在の橋は、昭和61年(1986)に架け替えられたものである。

豊川稲荷遥拝所 真光寺 聖眼寺 下地一里塚跡
豊橋の渡り詰めを左折して行くと、右手に豊川稲荷遥拝所がある。
ここには常夜燈があり、「右御油道」 と刻まれている。
豊川稲荷遥拝所から100mほど先に真宗高田派の朝晃山真光寺がある。
真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の木造阿弥陀如来立像の解説がある。
真光寺の一区画隣に真宗高田派の聖霊山聖眼寺がある。
聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと伝えられている。
境内には、寛保4年(1744)と明和6年(1769)の芭蕉句碑が2基建っている。
聖眼寺を過ぎると下地信号交叉点の手前右手に下地一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて74里目の一里塚である。

㈱ヤマサン 水神社 名残松 瓜郷(うりごう)遺跡
下地信号交差点を過ぎると、街道右手に立派な建物の㈱ヤマサンがある。
㈱ヤマサンは、元禄16年(1703)創業で、当時は主に大豆・菜種の搾油業をしていたが、現在は米・大豆・油・飼料など農産物を中心とした営業を行っている。
㈱ヤマサンの先の左手筋を上がって行くと、豊川の近くに水神社がある。
水神社は、天文13年(1544)の創建で、祭神は瀬織津比咩命
(せおりつひめのみこと)である。境内の解説によると、この場所は慶應2年(1866)の漁業権問題解決のため、吉田城主に嘆願に上がる漁民を、庄屋・鈴木喜左衛門等が説得した所であるという。
街道に戻って進むと、横須賀信号交差点の先に名残松が一本立っている。
この松は地図上でも表記されているが、東海街道名残の一本松であり、幹にも 「東海道名残の一本松」 の木札が掛かっている。
名残松の直ぐ先右手筋の角に瓜郷遺跡標柱があり、そこから100m程入ると瓜郷遺跡がある。
瓜郷遺跡は、昭和22年(1947)に発見された約2,000年前の弥生中期から後期の竪穴式住居跡である。

鹿菅橋 秋葉神社 豊橋魚市場 高橋
街道に戻ると、直ぐ先の江川に架かる鹿菅橋がある。
かつて、この辺りは志香須賀の渡しがあったところである。橋標は平仮名の方に 「志かすがはし」 と記されている。
街道を進んで行くと、左手のカドヘイ酒店から2軒先の民家脇に覆屋に入った秋葉神社がある。
覆屋の前には風化の進んだ秋葉山と刻まれた石碑が建っている
秋葉神社から程なく左手に豊橋魚市場がある。豊橋魚市場は、昭和41年(1966)に魚町から現在地の下五井町に移転してきた。
この魚市場の先で豊橋市から豊川市に入って行く。
豊川市に入って直ぐ豊川放水路に架かる高橋がある。豊川放水路は、昔は江川と言われ大雨が降るたびに洪水の被害にあったという。
この高橋は江川のころからあって、少し高く架けられた土橋であった。現在の橋は昭和40年(1965)に架け替えられたものであるが、歩道が無いためトラックがすれ違う時など恐怖を感じる。

子だが橋碑 菟足(うたり)神社 五社稲荷神社道標 名残松と秋葉神社
高橋を渡り、その先の善光寺川に架かる万石橋を渡ると右手に 「子だが橋碑」 がある。
菟足神社には、大祭の初日にこの街道を通る若い女性を生贄にする習慣があったという。ある年の大祭の日に渡る娘があり、よく見ると我が子であったが、「子だが止むを得ん」 といって生贄にして神に奉ったという。
かつて東海道に架かっていたこの橋は現在は無い。
子だが橋碑の先で才ノ木南交差点を渡り、続いて才ノ木交差点を渡ると、右手に菟足神社がある。
菟足神社は、白鳳15年(686)に創立され、菟上足尼命
(うなかみすくねのみこと)が祀られている。境内には徳川家康・吉田城主らから崇敬された兎足八幡社のほか、津島神社・金刀比羅神社・山住神社などの境内社がある。
菟足神社を出ると右手二本目の細い路地角に五社稲荷神社道と刻まれた道標がある。
五社稲荷神社は、北側を走る国道1号線の東に鎮座する神社で、文政13年(1830)に伏見稲荷の分身として勧請し、五社稲荷神社となった。
直ぐ先でJR飯田線の小坂井踏切を渡ると右手に名残松があり、その下に秋葉神社がある。
秋葉神社の由来等は不明であるが、社殿脇には文化5年(」1808)の秋葉山常夜燈が建っている。

町並み 秋葉神社 明光寺 馬頭観音
秋葉神社の先は、旧小坂井村の町並みが旧街道の面影を残している。
先に進んで、やや広い県道384号線を渡ると左手に秋葉神社がある。
秋葉神社の由緒等は不明であるが、社殿前には文化15年(1818)の秋葉山常夜燈があり、秋葉神社の隣には牛頭天王社がある。
秋葉神社の左に浄土宗の諏訪山明光寺がある。明光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には地境の五輪塔のほか多数の石仏が並んでいる。
現在の豊川市蔵子町と小坂井町宿との間で、野川の川筋について地境の争いが度々あり、その地境にあった五輪塔を両方でうばいあったと言われている。
街道を進むと左手の民家の脇に馬頭観音が建っている。

伊奈村立場茶屋跡 迦具土神社 伊奈一里塚跡 速須佐之男神社
更に進むと街道左手に伊奈村立場茶屋加藤家跡がある。
貞享4年(1687)、吉田藩主小笠原壱岐守長祐が御馳走御茶屋として建てたのが始まりで、その後、数軒の茶屋が建てられた。この茶屋には東京遷都の時、明治天皇が休息されたという。
ここには、芭蕉句碑 「かくさぬそ 宿は菜汁に唐が羅し」 と烏巣句碑 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 がある。
立場茶屋跡の斜向かいに迦具土神社がある。延宝8年(1680)の創建で、伊奈村茶屋町の氏神であった。
境内には、文化6年(1809)の常夜燈、一面六臂の馬頭観音、大楠公之碑などがある。
県道373号線との信号交差点を越えると、右手にある慶應4年(1868)創業の山本太鼓店の前に伊奈一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて75里目の一里塚である。
伊奈一里塚跡から程なく右手に速須佐之男神社がある。
速須佐之男神社は、明和7年(1770)の創建と言われ、境内には天保3年(1832)の常夜燈などの石燈籠のほか、稲荷神社などの境内社があり、鳥居前に正一位秋葉神社が建っている。

佐奈橋 渕深寺 稲荷神社 五六橋
先に進むと佐奈川に架かる佐奈橋がある。
佐奈橋は、欄干の低い自動車専用橋で、隣に新しい歩道橋がある。
佐奈橋を渡り、左手の千成屋酒店の角を左(西)に入ると曹洞宗の渕深寺がある。
渕深寺の創建年代等は不詳であり、堂宇は寺院とは思えないが、境内には観音菩薩を安置した覆屋がある。
近くに説明板もなく全く不明である。
渕深寺の西側に稲荷神社がある。
稲荷神社は、慶安元年(1648)小田渕村から出郷して桜町を開いた人々の鎮守の社として稲荷大明神を祀ったのが始まりで、明和9年(1772)改めて京都伏見より勧請したといわれている。
街道に戻って進むと白川に架かる五六橋がある。
この橋も佐奈橋と同様に欄干が低く自動車専用の橋で、隣に新しい歩道橋が架けられえている。
五六橋の名前の由来は不明である。

西古瀬橋 県道31号線 旧道口 白鳥神社
続いて西古瀬川に架かる西古瀬橋がある。
この橋も欄干が低く、五六橋と似た造りであるが、ここには歩道橋がない。
先に進むと県道31号線の高架が見え、その下は街道が分断されている。
ここは左の側道を通り、迂回して反対側へ出る。
白鳥5丁目西交差点で国道1号線を渡り、直ぐ左の筋へ入って行く。
右手は田圃が一面に広がっている。
この先の名鉄豊川線踏切を越えたところから旧道が消滅しているので、旧道に近い道路を進んで行く。
名鉄豊川線の踏切を越えて、直ぐ左の道を進んで行くと十字路があり、ここを右に入って行くと白鳥神社がある。
境内の解説によると、「三河国内神明帳」 に 「正三位白鳥大明神」 とあり、歴代の領主・代官は祭典には欠かさず礼拝したという。明治6年(1873)村社に列し、大正10年(1921)神饒幣帛供進の指定社となった。

正福寺 法雲寺 旧道口 半僧坊大権現
白鳥神社の東に隣接して曹洞宗の瑞潮山正福寺がある。
正福寺の創建年代等は不詳であるが、東三河四国八十八ヶ所霊場の66番札所となっている。
更に正福寺の東に隣接して浄土宗の白鳥山地蔵院法雲寺がある。境内の解説によると、法雲寺は天文20年(1551)に大恩寺の暁誉和尚が開いたと伝えられている。
山門は、赤坂陣屋から移築した薬医門であり、境内には延命地蔵菩薩を祀った地蔵堂がある。
十字路に戻って名鉄豊川線に沿って進み、T字路を左折して名鉄名古屋本線の踏切を渡ると国道1号線に出る。
国道1号線の国府町薮下交差点から左に旧道がある。
街道を進むと、右手に半僧坊大権現と書かれた石柱に注連縄を付けた小社が建っている。
半僧坊大権現は、火伏せの神である。

秋葉山常夜燈 薬師堂 恵比寿神社 極楽寺
半僧坊大権現の直ぐ先に、寛政12年(1800)の秋葉山常夜燈が建っている。
常夜燈の前の解説には、「秋葉三尺坊大権現はその昔越後国蔵山より白狐に乗って遠洲の秋葉山に飛来したいといわれ火防の霊験あらたかと信ぜられ、 江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、奥深い信仰をあつめられ、国府村民等をあつめられ、国府村民等も村内を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました」 と記されている。
秋葉山常夜燈の先の十字路を過ぎると右手に薬師堂がある。
この地に住む娘二人が、母の死を嘆いていることを知った僧行基が、仏像を刻んであげると二女は、朝晩となく供養して寺を建立したという。このため寺号は、二子寺と言うそうである。
薬師堂の先の十字路を右折し、その先の十字路を左に入ると、広場の片隅に恵比寿神社がある。
近くに解説もなく、恵比寿神社の由緒などは不明である。
街道に戻って、最初の左手筋を入ると浄土宗の府中山極楽寺がある。
極楽寺の創建年代等は不詳であるが、境内には地蔵堂があり、地蔵菩薩坐像が祀られている。

長泉寺 国府観音 国府の町並み 八平次記念館跡
極楽寺の西側に路地を一本挟んで真宗大谷派の長泉寺がある。
長泉寺の創建年代等は不詳である。
長泉寺の北側に名鉄名古屋本線の国府駅へ通じる通りを挟んで国府観音がある。
国府観音は、江戸時代に地中から見つかったという身の丈1寸8分の聖観世音菩薩像を祀っており、秘仏とされている。
境内には、天保14年(1843)の芭蕉句碑 「紅梅や 見ぬ恋つくる 玉すだれ」 がある。
街道に戻って新栄町2丁目交差点の先を進むと、旧街道を偲ばせる連子格子の家が並ぶ国府の町並みが続いている。 左手に八平次記念館八の蔵の看板が建つ建物がある。
この建物は、土蔵を改修した多目的ホールとのことである。

大社神社 御油一里塚跡 姫街道追分 道標
先に進むと右手に大社神社がある。
大社神社は、天元・永観年間(978~985)に、時の国司大江定基が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請たのが始まりという。境内を取り巻く石垣と白い土塀は、近くにあった田沼陣屋の石垣を移築したものと言われる。
境内には、稲荷神社・秋葉神社・金刀比羅神社などの境内社がある。
大社神社から程なく、街道右手の蒲郡信用金庫国府支店の前に御油一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて、76里目の一里塚である。
一里塚跡から直ぐ先の、2車線道路(県道368号線)との交差点角に道標が建っている。
ここには、秋葉山三尺坊大権現道道標・國幣小社砥鹿神社道道標・姫街道道標、そして道標を兼ねた秋葉山常夜燈が建っている。
御油橋の手前の変則五叉路の右手筋に 「従是神社道」 と刻まれた道標が建っている。
この道標は、八面神社への道標であり、裏面には文久(1861-64)の文字が刻まれている。

御油橋 若宮八幡社 高札場跡 問屋場跡
変則五叉路の先に音羽川に架かる御油橋がある。
現在の橋は、昭和10年(1935)に改修されたものだが、音羽川の流れは往時の面影を偲ばせている。
御油橋の渡り詰め左側に若宮八幡社がある。
若宮神社の由緒は不明であるが、小さな社殿の前には狛犬が鎮座している。
先に進んだ十字路の左角に高札場跡がある。
解説板には、「高札場とは、江戸時代に幕府や領主の法令・禁令などを墨書した板札を掲示した施設で、城下町や宿場など人目につきやすい場所に設置されました。 御油宿の高札場は、この場所にありました。   豊川市教育委員会」 と記されている。
高札場跡の十字路を右折すると、右手の空き地の前に問屋場跡がある。
解説板には、歌川広重の狂歌入東海道石薬師問屋場ノ図が載っており、隣には東海道53次御油旅人留女が掲載されている。

松並木資料館 本陣跡 東林寺 御油の町並み
問屋場跡の先で県道374号線に出ると街道は左折となるが、右折すると音羽川沿いに杉並木資料館がある。
資料館の前には、樹齢380年の松の切株などが陳列されている。
街道に戻って進むと左手の味噌醤油製造業のイチビキ㈱の前に本陣跡がある。
イチビキ㈱は、安永元年(1772)に幕府の株をもとに、大津屋の屋号で味噌醤油の醸造を始めた。
ここには御油宿の解説があり、傍らに石碑が建っているが、風化して判読できない。
本陣跡の先の左手一本目の筋を入って行くと、突当りに浄土宗の白蓮院招賢山東林寺がある。東林寺は、永享年間(1429-41)に瀧月日蔵和尚によって創建されたという。
本尊の阿弥陀如来は、源義経と契りを結んだ浄瑠璃姫の念持仏と言い伝えられている。
墓所には、御油宿場の飯盛女たちの墓があるというが、不明であった。
街道に戻って進むと連子格子の家が街道両脇に建ち並んでいる。
             

御油宿西口・十王堂 御関札立掛場跡 御油の松並木 赤坂宿東見附跡
御油宿の西口にあたるところから、松並木が始まり、この左手に十王堂がある。
十王堂は、冥土で亡者の罪を裁くという十人の判官(十王様)をお祀りしている。
十王堂の向かい側に御関札立掛場跡がある。御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先となる宿場の本陣や問屋に事前に申し伝え、宿場の出入り口に立て掛けたものである。
ここには、「松平丹波守宿」 という関札が立掛けてあり、御油宿の解説板がある。
十王堂の先から、街道両側に見事な松並木が続いている。
この松並木は、赤坂宿
までの延々600mにわたって300本の松の大木が立ち並び、江戸時代の面影を今に残している貴重なものである。
御油の松並木を抜けて小川を渡ると、右手筋の角に赤坂宿の東見附跡がある。
解説によると、赤坂宿見附は東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。 「赤坂旧事記」 によれば、寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。 明治7年(1874)に取り壊された。

関川神社 旧家 赤坂宿本陣跡 高札場跡
街道を進むと、左手に境内全体を覆う大きなクスノキの下に関川神社がある。
関川神社は、長保3年(1001)の創建と言われ、三河国司大江定基の命をうけた赤坂の長者宮道弥太次郎長富が、クスノキのそばに市杵島媛命を祭ったのが始めと伝えられている。
鳥居の脇に、芭蕉句碑 「夏の月 御油より出て 赤坂や」 がある。
関川神社の先左手に連子格子の旧家がある。 続いて街道左手に赤坂宿本陣跡がある。
赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711)の町並図によると、4軒あった。 そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派なものであった。
本陣跡の直ぐ先、赤坂紅里T字路交差点のところにポケットパークがあり、高札場跡が復元されている。
ここには、赤坂宿の町並み案内や常夜燈・駕籠のモニュメントがある。

尾崎屋 秋葉神社 名電赤坂駅
高札場などのあるポケットパークの隣に明治元年(1868)創業の尾崎屋がある。
二階に軒行灯があり、「東海道53次赤坂宿・曲物民芸品製造卸問屋」 と記されている。
赤坂紅里交差点を右折すると、音羽川の手前右手に秋葉神社がる。
本日はここで終了し、このまま北に進んで、名鉄名古屋本線の名電赤坂駅に出る。
国道1号線を渡って直ぐ、名電赤坂駅がある。
この辺りに宿泊施設は無いので、豊橋に出て宿泊する。

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