千手観音菩薩坐像

観音堂

 当賢養院墓所に江戸時代豊橋を代表する俳人五束斎木朶(ごそくさいもくだ)の墓碑あり。木朶は享保12年(1727)吉田宿魚町に生まれ元文5年(1740)尾張犬山に赴いて商売の修行をなし、宝暦12年(1762)犬山より帰郷し、魚町で現金屋という宿屋を開業、かたわら俳諧に精進した。   岩屋山に建つ句碑  「かすむ日や 海道一の たちほとけ」  は翁の代表作である。
 文化7年(1810)83歳で没した。

左の2基のいづれかが木朶の墓、右が関の小萬の墓

賢養院本堂

本堂内陣

俳人木朶(もくだ)の墓説明碑

 小萬の妖艶さに魅せられた吉田坂下町の商人山田市郎右衛門が、彼女を妾にしようとして連れ帰り、彼女が店に出て紅を売るようになると、商売はたいへん繁盛するようになったという。
 しかし、往来の旅人で昔の彼女を見知った者たちは、店頭で 「関の小萬は亀山通い」 というはやり謡をうたったという。