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東海道   (新居~二川)


平成29年3月10日(金)   ☀|☁    新居~二川  14.7㎞
本日は、昨日の続きで新居宿の外れの橋本西交差点から出発し、山沿いの街道を進み潮見坂を上って、その先で白須賀宿を抜け、三河国(愛知県)へ入って最初の宿である二川までの予定である。一里山で国道1号線へ出るまでは街道の面影を残す道である。

日の出 旧道口 名残松 藤原為家・阿仏尼の歌碑
新居町駅から昨日の続きの橋本西交差点まで2km弱であるが、途中の月見橋の上で雲の間から上がる日の出を見ることが出来た。 橋本西交差点のY字路右から、山沿いに進む旧道が延びている。
傍らの電柱に海抜4.5mの表示がある。
街道を進んで、やや左に曲がる所から名残松が続いている。
松の下には、「浜名旧街道」、東海道道標 「紅葉寺跡」 がある。
紅葉寺跡から暫く松並木が続くが、この辺りの松並木は松喰虫の被害で全滅してしまい、昭和62年に植え直したものである。
この松並木の間に藤原為家・阿仏尼の歌碑が建っている。

立場跡 町並み 東新寺 稲荷神社
藤原為家・阿仏尼の歌碑の少し先で松並木が途切れ、左側に集落が始まるところに立場跡がある。
この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家が勤めてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が 「立場立場と水飲め水飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」 という戯れ歌を詠んだという話が残っている。
立場跡の先は両側に民家が立ち並び、往時の街道を偲ばせている。 立場跡から50m程先の右手に臨済宗方広寺派の松林山東新寺がある。
東新寺の創建年代等は不詳であるが、新四国浜名湖畔第六十四番霊場となっており、境内には弘法大師・観音菩薩などの石仏がある。
東新寺から100m程先の右手の竹林の中に鳥居が目立つ稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、赤い覆屋の中の稲荷神社祠脇に大正5年建立・昭和24年改築と書かれた木札がある。

秋葉神社 恵比寿神社 明治天皇御野立所跡 廃屋
街道右手の山が迫ったところの段上に新しい秋葉山常夜燈の建つ秋葉神社がある。
秋葉神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には金刀比羅宮が合祀されている。
秋葉神社の先の左手二本目の筋を入って行くと、恵比寿神社がある。
恵比寿神社の創建年代等は不詳であるが、寛正2年(1790)に現在地へ遷座し、寛文年間(1661-72)の神号札を残している。ご祭神は、天照皇大御神・八重事代主命で、毎年2月と12月の8日に子供たちによって行われる送り神行事 「大倉戸のチャンチャコチャン」 が天明年間(1781-88)から伝わっている。境内には、国学者・鱸有飛の歌碑がある。
恵比寿神社を過ぎると、次の左手筋の角に明治天皇御野立所跡がある。
ここは明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。明治天皇は、その後、新居宿の飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着した。
街道を進むと、裏山の木々に覆われた二階建ての中央がへこんで、全体的に歪みのある廃屋がある。
街道を歩いていると、こうした廃屋をよく見かける。

行信結社 火鎮(ほずめ)神社 風車 清正公大神社
廃屋から程なく右手の路地奥に日蓮宗の道場である行信結社がある。
この辺りの地名は白須賀で、元白須賀宿であったが、宝永4年(1707)の津波により壊滅的な被害を受け、現在の白須賀に移転した。
行信結社の裏山に火鎮神社があり、行信結社の脇から石段の参道がある。
火鎮神社の創建年代等は、火災等による史料焼失により不詳であるが、徳川家康の崇敬を厚く受けたと伝えられ、宿場町であった白須賀宿の鎮守といわれている。
参道石段の手前に白須賀宿マップと東海道道標 「白須賀宿・火鎮神社」 が建っている。
街道を進むと右手の山に大きな白い風車が回っている。
この風車は、浜名湖カントリークラブの風力発電の羽根である。
浜名湖カントリークラブの入口にあたる信号十字路を過ぎて、右手の民家の間の細い道を登って行くと清正公大神社がある。
湖西市の解説では、江戸時代、白須賀の海で溺れた若者を、通りがかりの大名が家来に助けさせた。救われた若者は加藤清正のご利益と聞かされ、お礼参りに行き、その分霊を奉じて現在地に祀ったという。現在、この神社は手入れがされておらず、柱や板壁は、ほぼ朽ちていて倒壊寸前である。

一里塚跡・高札場跡 内宮神明神社 内藤家長屋門 蔵法寺
街道に戻って先に進むと、右手の民家前に一里塚跡と高札場跡がある。
この辺りでは一里塚のことを 「一里山」 と呼んでおり、石碑にも 「一里山旧址」 と刻まれている。ここは江戸日本橋から数えて70里目の一里塚である。白須賀宿の高札場は、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されたほか 「加宿」 である境宿村にも一箇所設置されていた。
一里塚跡の直ぐ先の十字路右手角に内宮神明神社がある。
境内の由緒書によると、創立年代は不詳であるが、この地を古来神森山と言い、里人は内宮と呼んでいた。明応8年(1499)以来元禄年間(1688-1703)の数度の津波の為、棟札古文書等を失い、現存する棟札は宝永8年(1711)以降のものである。
境内には、秋葉神社・津島神社・金刀比羅神社などの境内社がある。
内宮神明神社に隣接して内藤家があり、街道に面して大きな長屋門が建っている。 街道を先に進むと右手の筋角に 「潮見観音蔵法寺」 の立て看板があり、入って行くと突当りに曹洞宗の龍谷山蔵法寺がある。
蔵法寺は、西暦790年頃(奈良時代末から平安時代)に、真言宗の寺として開基されたが、慶長3年(1598)琢翁宗珉和尚により、曹洞宗の寺として開かれた。本堂には、本尊の地蔵菩薩とともに、60年に1度の御開帳となる潮見観音が安置され、境内には三十三観音が祀られている。

潮見坂入口 うないの松 潮見坂 おんやど白須賀
蔵法寺の先の右手の山道が潮見坂の入口となる。
この左手角の家の前に、東海道道標 「白須賀宿」 と石柱の道標が建っている。
潮見坂が左にカーブする辺りの右手筋に 「うないの松」 がある。
解説によると、文明8年(1476)4月6日駿河守護職今川義忠公を葬った上に植えられた松で、昔から枝一本折っても、オコリをふるったと恐れられていた松であるという。
ここには 「うない松の歌碑」 と 「うない松のあと碑」、小さな供養塔が建っている。
蛇行する坂道を登って行くと、右手に潮見坂解説がある。
ここから振り向て見ると、青い遠州灘がとてもきれいに見える。
潮見坂を上り切った左手に 「おんやど白須賀」 が建っている。
ここは平成13年の東海道宿駅開設400年を記念し、白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広めるために設置された休憩ホールであり、宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波の記録を紹介したパネルや、東海道の名所潮見坂を行き交う庶民の旅模様を再現したジオラマなどを展示している。

顕彰碑群 潮見坂公園跡 秋葉神社 禮雲寺
「おんやど白須賀」 の先、左手の一角に多くの顕彰碑が並んでいる。
全ての人物の詳細は不明であるが、元白須賀町長であった山本庄次郎翁遺徳碑・義僕平八郎碑・医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎先生之碑などがある。
顕彰碑群の先に潮見坂公園跡がある。
かつての公園敷地には、湖西市立白須賀中学校が建てられているが、ここ公園跡には東海道道標 「白須賀宿」、明治天皇御遺蹟地記念碑などが建っている。
ここから見える遠州灘もきれいである。
白須賀小学校の直ぐ先右手に、石垣の上に建てられた秋葉神社の小社がある。
白須賀小学校が出来る前までは、ここに旧東海道が抜けていた。
街道の一本左側(西)の通りに禮雲寺がある。
禮雲寺は、正保元年(1644)に白須賀元町の神明宮西隣に本寺蔵法寺六世天山尭存大和尚によって開創され、その後、享保19年(1734)に大地震が起り、元町の宿場が津波により大きな被害を受けたため、現在地に移されたという。
本尊は地蔵菩薩で、境内には遠州三十三番札所の本尊十一面観音菩薩を安置した観音堂などがある。

十王堂 鷲津停車場往還道標 枡形跡 潮見寺
禮雲寺の西側に十王堂がある。
十王堂の創建年代は不詳であるが、宝永5年(1708)の白須賀宿移転に伴い、他の寺社とともに元白須賀宿から移転したと伝えられている。境内には、鐘楼・稲荷神社のほか、地蔵菩薩・観音菩薩などの石仏がある。
街道に戻って、やや下り坂の道を進むと右手筋の角に鷲津停車場往還道標が建っている。
この道標は、明治45年(1912)に建立されたもので、現在の東海道本線鷲津駅に至る道を示している。
鷲津停車場往還道標の先で街道は枡形をなしている。
曲がり角に 「曲尺手」 といわれる枡形の解説がある。
枡形の先の十字路を左に入ると、真宗本願寺派の悪止山潮見寺がある。
潮見寺は、正保元年(1644)誓念が元宿の悪止山に念仏道場を創建したことに始まり、宝永4年(1707)の津波の被害のため宿場と共に現在地へ移転した。明治6年(1873)潮見寺を校舎として小学白須賀学校が開設され、明治37年(1904)には蚕種検査所が潮見寺に設けられた。

妙泰寺 本陣跡 脇本陣跡 夏目甕麿(みかまろ)邸跡
潮見寺の南側に隣接して日蓮宗の安立山妙泰寺がある。
妙泰寺は、慶長元年(1596)本妙院日安が白須賀潮見坂下(元町)に開基したが、宝永4年(1707)の津波のため白須賀宿が全滅したとき、妙泰寺も全壊したため享保3年(1718)現在地に移転した。
境内には、裏山に住んでいた狸にまつわる狸塚、旗本佐原勘右衛門の墓などがある。
街道に戻って進むと、右手の白須賀宿美容院の前に本陣跡がある。
本陣跡標柱の隣の解説によると、ここは本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。
白須賀美容院の隣の谷中商店(たばこ屋)のところに脇本陣跡がある。
小さな標柱が建っているだけで、解説もなく詳細は不明である。
この左隣の白須賀バス停に東海道道標 「白須賀宿・問屋場跡」 が建っている。
白須賀バス停前の交差点右角に夏目甕麿邸跡がある。甕麿は、国学を内山真龍に学び、後に伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めた。諸平は、甕麿の長男で紀州和歌山の藩医の養子となった。
角地に建つ石碑には、「夏目甕麿邸阯・加納諸平生誕地」 と刻まれている。

神明宮 火防の槙 庚申堂 火除け地跡碑
直ぐ先の伊藤歯科医院の脇を右に入ると神明宮がある。
神明宮は、安政4年(1857)白須賀町字栗の木に鎮座していた神明社を現在地に再建し、更に伊勢皇大神宮を勧請し、神明社を改め神明宮と称したという。
拝殿奥に2社見えており、左(西)を外宮、右(東)を内宮と称している。
街道に戻って進むと、街道の両側にかなり太い槙の木が立っている。
街道脇にある解説によると、火災除けに火に強い常緑樹の槙を植えたものである。
車の往来の少ない長閑な街道を進むと、右手に庚申堂がある。
最近まで建っていた、天保12年(1841)に再建された鬼瓦の立派な御堂はなく、集会所のような建物となっている。
境内には、見ざる聞かざる言わざるの三猿の他に四猿の 「行わざる=せざる」 が並んでいる。
庚申堂の直ぐ先右手に火除け地跡碑が建っている。
火防の槙の解説にもあったが、火事を食い止めるために、人々は 「火除け」 とか 「火除け地」 とか呼んで大切にしていた。火防の広さは、間口二間(3.6m)奥行き四間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槇が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点、六場所の火防があった。

東海道道標・高札場跡 成林寺 笠子神社 旧道跡
直線の街道が左にカーブするところでY字路となり、この左側に建つ境宿公会堂の向かいに、東海道道標 「境宿(白須賀宿加宿)」 が建っており、Y字路右側から北に延びる筋角に谷川道道標と高札場跡碑が建っている。 Y字路の左側には、法華宗陣門流の久松山成林寺がある。
成林寺は、天正5年(1577)に日遠によって開山し、当初は久成坊と呼ばれており、境宿村もこのころ出来たと言われている。境内には、坂宿村開祖之碑が建っている。
成林寺の先で国道173号線に合流すると、左手の段上にこんもりとした林があり、この中に笠子神社がある。
笠子神社は、太古より笠子大明神と称し高志山の麓白菅帯の港の西岸に鎮座していたが、貞元元年(976)の高波や明応8年(1499)の津波などにあって二度移転をし、元和2年(1616)現在地に遷座した。参道口は街道に面して北側にあるが、拝殿はほほ街道に背を向けて南東を向いている。
笠子神社の森の前で、国道173号線の右手(北)に50~60m程の旧道跡がある。

境川付近 一里山七本松 一里山の一里塚跡 キャベツ畑
境川に架かる境橋を渡ると、右手は田畑が広がり、空が高く見える。
この境川は、遠江国と三河国の境で、現在は静岡県湖西市と愛知県豊橋市の境となっている。
直ぐ先の一里山東交差点で国道1号線に合流すると、交差点の右手に東海道5次宿場制定400年記念で植樹された一里山七本松が立っている。 一里山交差点の右手のこんもりとした林に一里山の一里塚跡(北塚)がある。
この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一基ずつあったが、南塚は破壊されて屋敷の一部となり、消滅してしまった。一里塚跡前には、地蔵菩薩と秋葉神社・津島神社の祠が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて71里目の一里塚である。
一里山を過ぎて、国道1号線の歩道をどんどん進んで行くと、右手はキャベツ畑が一面に広がっている。
豊橋市は、キャベツや白菜などの野菜の生産が盛んであり、農業産出額は田原市に次いで県内第2位である。

豊清神社 二川ガード 筋違橋 二川一里塚跡
街道を進むと右手の丘陵に林があり、社務所の屋根が見える。直ぐ先の横断歩道橋のところから回り込んで坂道を上がると豊清神社がある。
豊清神社は、明治25年(1892)この地の開拓者斉藤清助が稲荷社を祀ったのが始まりと言われ、祭神は誉田別神・倉稲魂神である。
街道に戻って精進川を越え、緩やかな源吾坂を過ぎると、右手に東海道新幹線の高架が近づいてくる。
二川ガード南交差点を右折して、東海道新幹線二川ガードをくぐって行く。
二川ガードをくぐると、直ぐ先に梅田川に架かる筋違橋がある。
この橋を渡り、東海道本線の踏切を渡ってY字路を左に進むと二川宿である。
二川に入って最初のT字路角にある川口屋(二川宿案内所)の前に、二川の一里塚跡がある。
ここは二川宿の東の入口にあたり、江戸日本橋から数えて72里目の一里塚である。

妙泉寺 十王院 格子の家 八幡神社
直ぐ先の右手に日蓮宗の延龍山妙泉寺があり、街道に面して南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
妙泉寺は、貞和年間(1345-50)に日台上人が建てた小庵であったが、その後、幾度かの変遷を経て、万治3年(1660)に現在地に移転して、山号を延龍山と改めた。
境内には、寛政10年(1798)に建立された芭蕉句碑がある。
妙泉寺の参道の途中から右(東)に入ったところに十王院がある。一見して普通の民家であるが、玄関先(右の建物)に十王院の木札が貼ってある。
本来の入口は、街道の民家の間にあり、そこを上がってくると左手に六地蔵尊があって、右手に墓地がある。墓地の前に寛永9年(1632)の二川新町開山の碑がある。
街道に戻ると左右に格子の家があり、往時の宿場町の面影を偲ばせている。 先に進むと右手に八幡神社がある。
社伝によれば、永仁3年(1195)鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から勘定したのが創立と伝えられている。江戸時代には、黒印地二石を受け、その格式は高いものであった。現在は二川の氏神となっている。
境内には、二川新橋町の街道枡形南にあった文化6年(1809)の秋葉山常夜燈、境内社の護国神社・津島神社・稲荷神社などがある。

二川宿町並み 東駒屋 二川宿まちなか公園 東問屋場跡
八幡神社を出て新橋川に架かる新橋を渡ると、二川宿の趣ある町並みが続いている。 街道がやや枡形になっているところに商家 「駒屋」 田村家がある。
田村家は、元禄4年(1691)に遠江国敷和郡中之郷村(現湖西市)から二川宿へ移り、初め医師を、後に米穀商・質屋を営み、屋号を駒屋とした。明和7年(1770)以降に、松音寺門前の瀬古町から新橋町の現在地に移転した。当主は代々善蔵の名を世襲し、宿役人や村役人を勤めた。現在、家屋は豊橋市指定有形文化財に指定され、一般公開されている。
駒屋の直ぐ先に、二川宿まちなか公園があり、東屋などがあって休憩できる。 二川宿まちなか公園の前は十字路になっており、その右角にある和菓子店 「日の出軒」 のところが東問屋場跡である。
店の前に小さな 「東問屋場跡」 標柱が建っている。

旅籠屋「三ツ田屋」 脇本陣跡 本陣跡 西駒屋
東問屋場の先に旅籠屋 「三ツ田屋」 がある。 旅籠屋 「三ツ田屋」 の隣に旅籠屋 「和泉屋」 があり、その先右手(北)に脇本陣跡があり、格子に解説が貼られている。
二川宿の脇本陣は、松坂家が勤めており、文化4年(1807)以前は、この地に後藤家・紅林家の本陣があった。文化4年に本陣が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣は、この地に移った。
脇本陣跡を過ぎると、街道左手(南)に本陣跡がある。
二川宿の本陣は、文化4年(1807)から約60年間、馬場家が勤めていた。邸内には、土蔵や主屋、玄関棟、表門が残っており、隣接して旅籠屋 「清明屋」 があり、本陣とともに一般公開されている。これにより大名の宿・本陣と庶民の宿・旅籠屋をセットで見学できる。
本陣跡の斜向かいに西駒屋がある。
西駒屋は、新橋町にある商家 「駒屋」 から分家した東駒屋より更に分家し、明治42年(1909)に味噌・醤油の醸造業を創業した。
明治時代後期に建築された主屋は、切妻造平入りの三州瓦葺で、この地域特有の商家の佇まいを有している。建物は、国登録有形文化財になっている。

高札場跡 大岩寺 西問屋場跡 大岩町郷蔵跡
続いて街道がやや枡形をなしている所の左手(南)に高札場跡がある。
ここには秋葉神社の祠があり、秋葉山常夜燈・二川町道路元標などがある。
高札は、本陣跡の敷地に復元されている。
高札場跡の向かいの路地の奥に曹洞宗の亀見山大岩寺がある。
奈良時代の僧行基により、岩屋観音が建立され、大岩寺は観音堂の塔頭の6坊の一つで岩屋山の山麓にあった。6坊のうち大岩寺のみが残り、観音堂を管理していた。その後、元和8年(1622)遠江国宿芦寺の通山宗達が、真言宗から曹洞宗に改宗させ再興した。境内には、地蔵堂のほか三面の馬頭観音などの石造物がある。
街道に戻ると豊橋商工信用組合二川支所の隣の民家前に西問屋場跡がある。
現在、遺構はなく西問屋場跡碑が建っているのみである。
先に進むと県道404号線との交差点左角に大岩町郷蔵跡がある。ここは飢饉に備えて穀物を備蓄したところである。
郷蔵跡碑の奥は、豊川警察署二川交番である。

大岩神明宮 立場茶屋跡 岩屋観音への道標 伊良胡阿志両神社道道標
郷蔵跡前の交差点を右に進むと、大岩神明宮がある。
社伝によると、当神明宮は古く文武天皇2年(698)岩屋山の南山麓 「かささ」 に巌根の庄大岩の里人に依って創建祭祀されたと伝えられている。また、古来より武門武将の崇敬篤く、織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康は御朱印社嶺三石五斗を安堵した。境内には、文化4年(1807)の秋葉山常夜燈のほか金比羅神社などの境内社がある。
街道に戻って交差点の先を進むと、左手の化粧品店 「OZAKI」 の前に立場茶屋跡がある。 東海道本線二川駅前のロータリーに弘化4年(1847)の道標が建っている。
道標には、「是より岩屋江八丁」 と刻まれている。
二川駅の直ぐ先左手に渥美奥郡道道標がある。
道標には、「伊良湖阿志両神社道、右東海道豊橋一里半」 と刻まれている。

岩屋観音 火打坂
火打坂交差点を左に500m程進むと岩屋観音への登り口があり、そこから300m程坂道を登ると岩屋観音かある。
天平2年(730)僧行基がこの地に赴いたとき、その風景に魅せられて千手観音像を刻んで岩窟に安置したのが始まりといわれる。岩屋山頂の聖観音立像は明和2年(1765)に建立されたが、太平洋戦争中に供出され、現在のものは昭和25年(1950)に再建されたものである。
街道に戻り、火打坂交差点で本日の街道歩きは終了である。
JR二川駅に出て、本日の宿泊場所である豊橋へ向かう。

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