史蹟山中城跡は、小田原に本城を置いた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防備のために創築したものである。
やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数に僅か半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の城主松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘に踏み切り、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪n造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿を留めている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。
(三島市教育委員会)
発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を基に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。
山中城の堀には、土橋が多く構築さfれ、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と比べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。
(三島市教育委員会)
標高578m、面積1740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。
虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
(三島市教育委員会)
標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。
天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70㎝の高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。
天守台には、井楼(せいろう)、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。
本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、1m位の幅で造られていたものと推定される。
(三島市教育委員会)
兵糧庫の柱穴
復元された兵糧庫
山中城跡案内図
山中城跡本丸の天守櫓に接して植生しており、樹高31.5m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は500年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り4.37m、枝張りは西側へ5m、北東側へ8mも展開し、各枝の葉色も良い。
「矢立の杉」 の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、「豆州志稿」 の中の記述にある。
(三島市教育委員会)
矢立の杉と呼ばれる
本丸の斜面に立つ杉
天守櫓跡
本丸跡
本丸と北の丸の架橋
国指定史跡山中城跡説明