この墓は昔から 「雲助の墓」 と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出ており、その下に 「久四郎」 という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに、やがて雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を締めることになってしまったのです。
 彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓を建てて恩返しをすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。
 「箱根の雲助」 は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂を登れない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。
 なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚の辺りでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一か所に落ち着かなかったようです。
  (三島市)

街道脇に建つ雲助徳利の墓

雲助徳利の墓説明

雲助徳利の墓