この旧街道は慶長9年(1604)江戸幕府が整備した 「五街道」 の一つ、東海道の一部である。箱根路には、古代の碓氷道・中世の足柄道、近世の湯坂道などがあったが、延暦21年(802)富士山の噴出物で埋もれた湯坂道に代わって、現在の経路をとるようになった。
東海道の箱根山中は、道幅が狭く2間(3.6m)以下の所もあり急坂が多いので、竹を敷き滑り止めとした。寛永12年(1635)参勤交代の制度が布かれ、諸大名を始め一般旅人の通行が盛んになった。
延宝8年(1680)頃から永久的なものとして石が敷き詰められたと言われる石畳などの貴重な資料が一部残っている。
ここから西、下り坂約600mが、当時のまま現存している。
(文化庁・函南町)
史跡箱根旧街道の標柱
箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政7年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。
やがて明治12年(1879)、八石性理教会によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は、昭和45年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約90年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。
箱根の接待茶屋については、「山中接待所」 や 「茶屋」 などさまざまな呼称がある。「廣為道友鑄此器永充施行平憩之用」 の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」
「せったい茶屋」 の看板とともに、施行奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。
(三島市教育委員会)
接待茶屋の標柱
かつての接待茶屋
箱根旧街道説明
接待茶屋説明