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東海道   (三島~原(沼津)


平成28年3月20日(日) ☁  三島~沼津市原  15.0㎞
ちょうど一年ぶりの東海道歩きのスタートである。昨年の3月22日(日)に三島大社に寄った時には、神池の畔の枝垂れ桜が満開であったが、今年はまだ固いつぼみのままである。三島大社の境内を見て回り、鳥居の前から街道歩きのスタートとなる。三島宿、沼津宿、原宿までの行程である。

水辺の文学碑 白瀧観音堂 三嶋大社 問屋場跡
三島駅から三島大社へ出る途中の白滝公園から続く水上通りの歩道上には、正岡子規・太宰治・若山牧水・松尾芭蕉など12名の句碑が建っている。
白瀧公園の脇の桜川沿いに白瀧観音堂がある。このお堂は平安時代末からここ水上の地に在って、観世音菩薩が祀られている。当時は現在地より北に位置し、堂の傍らに白いしぶきを上げながら瀧が落ちていたところから白瀧観音と尊称され、白瀧寺という尼寺の本尊であったと伝えられている。傍らに平井源太郎書の農兵節が刻まれた石碑がある。 東海道に面して伊豆一宮の三嶋大社がある。
境内には樹齢1200年の金木犀の大樹があり、国の天然記念物に指定されている。
源頼朝が例祭の夜に山木判官を討ち、旗挙げに成功したという記録が残っており、鳥居の右手には源頼朝旗挙げの碑などがある。
大社町西交差点を過ぎると右手の三島中央郵便局のところに問屋場跡がある。
ここには問屋場解説と問屋場碑が建っている。

圓明寺 樋口本陣跡 世古本陣跡 三石神社
問屋場跡を右(北)に入って御殿川に架かる赤橋を渡ると、右手に日蓮宗の圓明寺がある。
この寺は康永3年(1344)足利尊氏の叔父にあたる日静上人が法華堂として建立し、その後、文明11年(1479)日澄上人によって開山された。山門は樋口本陣の表門を移築したもので、境内には日空上人が建てた孝行犬の墓がある。
街道に戻って上御殿橋を渡ると左手の刃モノヤ杉山の脇に樋口本陣跡がある。
ここには樋口本陣跡解説と樋口本陣跡碑が建っている。
樋口本陣跡の街道を挟んだ向かいに世古本陣跡がある。三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていた。
慶長6年(1601)徳川家康は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅であった。
本陣跡を過ぎて源兵衛橋を渡ると左手の源兵衛川沿いに三石神社がある。
三石神社は元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったという。かつて、ここには宝暦11年(1761)に造られた大鐘があったが、太平洋戦争の際に供出されたという。

蓮馨寺 林光寺 秋葉神社 千貫樋
街道に戻ると、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島広小路駅の手前右手に、浄土宗の君澤山蓮薫寺がある。
蓮馨寺は伊豆八十八ヶ所の霊場の札所であり 「弘法大師像」 を安置した真言宗の寺として創立し、その後、浄土宗に改宗された。
境内には観音堂・太子堂・子安地蔵堂・日限地蔵堂・芭蕉の墓などがある。
伊豆箱根鉄道の踏切を渡って進んで行くと、右手に浄土宗鎮西派の摂取山林光寺がある。
林光寺は、武田信玄の5男信景が、弘治3年(1557)甲斐の国で得度し、故信と称し、三河長篠で敗れた武田家の再興を選ばず、三島において一宇を建立し、林光寺と称したのが始まりである。また林光寺は、東海88箇所の第70番の観音霊場札所であり、境内右手には西国33箇所の観音像が安置されている。
街道に戻るとセブンイレブンの先左手に秋葉神社がある。
ここには西見附跡・推定樹齢300年のムクノキ・火袋の無い常夜燈などがある。
秋葉神社の直ぐ先の境川橋の右手に千貫樋があり、民家の間から廻ってみると水量もある。
この樋は、当初木樋であったが、大正12年の関東大震災の際、崩落したため現在の鉄筋コンクリートに造り変えられたという。
伊豆・駿河の国境を流れる境川に架けられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45㎝、高さ4.2mである。

常夜燈 土肥山稲荷神社 伏見一里塚 宝池寺
千貫樋交差点を越えると右手に常夜燈が建っている。
建立は弘化3年(1846)で、正面に常夜燈、右側面に秋葉大権現、左側面に富士浅間宮と刻まれている。
常夜燈の先の十字路を右に入ると千貫樋の傍に土肥山稲荷神社がある
毎年、稲荷講が行われ、土肥山とは用水を造った時の土がこんもりとした小山を作ったことから呼ばれているようである。
街道を進むと玉井寺と宝池寺を挟んだ変則十字路の両側に一里塚址がある。
玉井寺側の一里塚は概ね原形をとどめているが、宝池寺側の一里塚は復元されたものである。
ここは江戸日本橋から数えて29里目の一里塚である。
街道左手の一里塚奥に臨済宗妙心寺派の百丈山宝池寺がある。
ご本尊は聖観世音菩薩で、境内には瑠璃殿があり日光・月光菩薩と十二神将を従えた薬師瑠璃光如来が安置されている。

玉井寺 法泉寺 秀源寺 東光寺
街道右手の一里塚の奥に臨済宗妙心寺派の金龍山玉井寺がある。
境内には、白隠慧鶴(1685-1768)の遺墨である「三界萬霊塔」、山号「金龍山」、寺号「玉井寺」などがあり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡である。白隠慧鶴は江戸時代中期に、駿河に過ぎたるものが二つあり、「富士のお山と原の白隠」 といわれ、分かり易い禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧である。
国道1号線を渡ると直ぐ右手に臨済宗妙心寺派の法泉寺がある。
法泉寺は、永禄年間(1558~1569年)戦の災いに巻き込まれ、旧記等残らず焼失し、開祖年暦等不詳となっている。
境内には子育観音像・石祠・弘法大師像などがある。
街道を進むと右手に曹洞宗の秀源寺がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には弁財尊天・白山妙理大権現・秋葉三尺坊大権現・豊川陀枳尼真天を祀った御堂がある。
続いて、ほぼ隣に臨済宗建長寺派の東光寺がある。
この寺も創建代等は不詳である。

八幡神社 長沢の松並木 智方神社 黄瀬川橋
東光寺の裏手に八幡神社がある。創建については不明であるが、祭神は主神が応神天皇、副神に比売神と神功皇后を祀っている。
境内には源頼朝と義経の兄弟が対面した時に、椅子代わりに腰掛けた石とされる一対の石が残されている。
八幡神社から街道に出て、信号交差点を越えると左手に長沢の松並木がある。
この松並木は当時のままで、往時の東海道を偲ぶことのできる数少ない史跡である。
松並木の切れる右手に智方神社がある。
創建年代は不詳であるが、明暦3年(1657)11月火災のため旧記録焼失し、貞享元年(1684)に造営したが、その後大破したため寛延3年(1750)に本社を普請したとう。境内社の穂見神社の御神木となっているクスノキは、推定樹齢700年で足利方に敗れた後醍醐天皇の皇子・護良親王の御首を葬った目印に植えられたと伝わっている。
智方神社を過ぎると黄瀬川に架かる黄瀬川橋がある。
黄瀬川は御殿場市に源を発し、川底には溶岩の流れた跡が確認できる河川である。
かつて黄瀬川橋袂にあった蛇塚・馬頭観音・庚申塔などは、黄瀬川改修工事の際に智方神社に移設されている。

潮音禅寺 榜示石 歴史マップ 小社
街道を進むと右手に臨済宗妙心寺派の東海山潮音禅寺がある。
境内には源頼朝に見初められるも応ぜず黄瀬川に身を投げた亀鶴姫の石碑がある。
また明治12年廃寺となり、潮音禅寺に移転安置された亀鶴観音堂がある。
街道が県道380号線に合流する手前右手の黄瀬川村と下石田村の境に榜示石(榜示杭)が建っている。
初代沼津藩主水野出羽守忠友は安永6年(1777)に将軍家治の側用人となり、加増されて2万石の大名となった。翌年に榜示杭 「従是西沼津領」 が建てられ沼津藩領域が確定した。
県道380号線を進むと左手の道路下にポケットパークがあり、江戸時代の下石田村の歴史マップが掲載されている。
傍らには東海道道標があり、「駿府へ15里」 と刻まれている。
緩やかな下り道を進むと静岡オートセンターの先で左に入る旧道がある。
このY字路中央に赤い屋根の小社が建っている。

平作地蔵 一里塚跡 川廓通り 水神
旧道に入って堤防沿いの道を進むと左手に平作地蔵がある。この地蔵は実際にあった仇討ち事件 「鍵屋の辻の決闘」 に関係があり、渡辺数馬と助太刀の荒木又右衛門が河合又五郎を討つ有名な仇討ちで日本三大仇討ちの一つになっている。
地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」 の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」 と言われている。
平作地蔵の直ぐ先に一里塚跡がある。この一里塚は、伏見一里塚から計測すると距離が不足するが、本来は本町地内に造るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたと言われる。
傍らには、古墳時代に使われた玉砥石が保存されている。
ここは江戸日本橋から数えて30里目の一里塚である。
一里塚跡の先で県道380号線に合流し、三園橋交差点の先で左に入る川廓通りがある。
川廓は、川曲輪とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名付けられたと考えられている。
川廓通りを進むと左手に小社の水神がある。

沼津城本丸址 三枚橋城外堀址 御成橋 高田本陣跡
水神の先右手に川廓通りの解説があり、この横を北に入ると中央公園があり、この一角に沼津城本丸址がある。
沼津城は、安永6年(1777)老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ築城したもので、天正7年(1579)に築城された三枚橋城を利用しており、三枚橋城と比べると小さなものであった。
川廓通りから県道159号線に出ると歩道上に三枚橋城外堀址がある。
三枚橋城は、戦国時代の天正年間に武田勝頼が築いたと伝えられ、それ以後、松平康親・康重や中村一栄が在城し、江戸時代の初期に大久保忠佐を最後の城主として廃城となった。ここにある石は外堀の石垣に使用されたもので、この石の位置が外堀のほぼ中心を示しており、この下には今も城跡が埋もれている。
三枚橋城外堀址を過ぎると左手に狩野川に架かる御成橋がある。
御成橋は、沼津御用邸に向かう皇族がその橋を渡って御用邸に向かうために 「御成」 と名付けられたという。
橋の袂には、宇迦之御魂神を祀った上土朝日稲荷神社がある。
通横町交差点を右に折れて、直ぐ先の東海道道標 「沼津宿」 が建つ十字路を左折すると、左歩道上に高田本陣跡がある。
遺構は残っておらず 「東海道沼津宿高田本陣跡」碑が建っているのみである。

中村脇本陣跡 間宮本陣跡 清水本陣跡 仲千代稲荷神社
続いて中村脇本陣跡があり、遺構は残っておらず 「東海道沼津宿中村脇本陣跡」 碑が建っているのみである。。 中村本陣跡と道路を挟んだ向かい側に間宮本陣跡があり、こちらも遺構は残っておらず 「東海道沼津宿間宮本陣跡」 碑が建っているのみである。 さらに間宮本陣跡の道路を挟んだ斜向かいに清水本陣跡があり、遺構は残っておらず 「東海道沼津宿清水本陣跡」 碑が建っているのみである。 清水本陣跡を過ぎると左手路地に仲千代稲荷神社がある。
創建は明治19年で、この頃から町内は商業が盛んとなり、繁栄の一途を辿った。この地に社を建てて、家内安全・商売繁盛を祈り、仲千代稲荷と称して四辺からの崇敬を集めた。

丸子浅間神社 東方寺 乗運寺 西見附跡
街道に戻って信号交差点を右折すると、直ぐ先の浅間町交差点の右角に丸子浅間神社がある。
丸子神社は第60代醍醐天皇の延喜式神名帖に所載する 「式内神社」であり、第10代崇神天皇の御代に創建されたと云われている。
明治10年(1877)に現在の浅間神社に遷座し、一扉二社となったという。
浅間町交差点を左(南)に進むと、左手に臨済宗妙心寺派の醫王山東方寺がある。
本尊は東方薬師瑠璃光如来であり、境内には琉球国沖縄戦没者舎利殿がある。
東方寺の道路を挟んだ向かいに浄土宗の千本山乗運寺がある。
乗運寺は、増誉上人(長円)の開基で、京都知恩院の末寺で三枚橋城主松平康親、沼津城主水野忠友の菩提所でもある。
境内には松平康親の墓、千本松原を愛した歌人・若山牧水の墓、寺内で 「斯道会」 という漢文の講座を開いていたという池谷観海の碑などがある。
街道に戻って進むと右手に出口町見附外と書かれた標柱が建っている。
出口町は、沼津宿の出口に当たることから付けられた地名であり、西見附はこの地の南付近にあったと言われている。
東見附は、現在の平町にあった。

六代松道標 六代松碑 妙伝寺 山神社
街道を進んで行くと信号交差点左手に六代松道標があり、是より南一丁半と刻まれている。 六代松道標を左折して南に進むと突当りに六代松碑がある。六代は平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。六代は平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来北条時政によって捕らえられ、鎌倉ヘ護送の途中、千本松原において処刑されようとした。その際、文覚上人の命乞いによって赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連座し、処刑されて千本松の根元に葬られたと言われる。 六代松道標の直ぐ先左手に法華宗の光栄山妙伝寺がある。
境内には、三枚橋城最後の城主となった大久保治右衛門忠佐の墓がある。
大久保治右衛門忠佐は、慶長6年(1601)には中村一氏の弟一栄に代わって、駿河国沼津において2万石を賜り、三枚橋城主となった。
妙伝寺墓地の先を進むと右手に山神社がある。
境内には道祖神を祀った御堂がある。

間門橋 金剛寺 山神社 八幡神社
街道に戻ると、妙伝寺の直ぐ先の新中川に架かる間門橋がある
間門(まかど)の地名については、昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに 「天竺魔伽陀国」 と彫られており、村人は堂を建てて胴体手足を造り、像にして安置しお祀りしたとの言い伝えから地名が付けられたと言われている。
西間門交差点の左手前に芸術家舟仙之墓と刻まれた石碑があり、その路地を南に入ると臨済宗妙心寺派の佛日山金剛寺がある。
街道にあった石碑の舟仙は文政の頃の人で、書画、彫刻に秀いで、金剛寺には彼の作品である狐の画他一体が所蔵されている。
境内には正一位稲荷大明神があり、年季の入った提灯が下がっている。
街道に戻って西間門交差点を直進して行くと、右手路地奥に山神社がある。 山神社を過ぎると直ぐ先に街道に面して八幡神社がある。
八幡神社の創建は、慶長9年(1604)で祭神は誉田別命、後に金山彦神社、神明神社も合祀された。石鳥居の右石垣上に 「従是東」 と刻まれた傍示石があり、下石田にある榜示石と設置時期、石質、字体、寸法など全て同一のため 「従是東沼津領」 だったがことが分かる。鳥居の左石垣には道標があり、「沼津藩領境」 と記されている。

諏訪神社 正覚寺 清玄寺 栄昌寺
街道を進んで左手の沼津片浜郵便局を過ぎると右手に諏訪神社がある。
この諏訪神社は、武田信玄家臣の市川和泉守の創建と伝わっている。
諏訪神社を過ぎると左手に臨済宗妙心寺派の普門山正覚寺がある。
正覚寺は、元禄2年(1689)徳源寺第9世方室玄策禅師を開山に迎え、小諏訪の旧東海道沿いに徳源寺の末寺 「自覚庵」 として創建された。
境内には、天保8年(1837)に流行った病から人々を救ったという霊験あらたかな白衣観世音菩薩などがある。
続いて街道左手に高野山真言宗の浮島山清玄寺がある。
清玄寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、弘法大師像・不動明王像などがある。
清玄寺の先に日蓮宗の妙秀山栄昌寺がある。
栄昌寺は、慶長5年(1600)に珠光院日宝上人が開いた寺である。
境内には、七面堂があり七面大明神、鬼子母尊神、清正公大神祇が安置されている。また本堂前には推定樹齢350年の巨大なソテツがある。

吉祥院 松長の一里塚跡 蓮窓寺 神明宮
栄昌寺の直ぐ先右手に本門法華宗の承光山吉祥院がある。
吉祥院は、寛文5年(1665)に沼津市岡宮の大本山光長寺の末寺として本山第25世日淳聖人により創建された。
境内には、元和元年(1615)頃に片浜大諏訪の海岸で漁師の網の中に入った天神様の木像を祀った天満宮がある。
吉祥院を過ぎると直ぐ右手の民家の塀の中に松長の一里塚跡碑がある。
旧大諏訪村と旧松長村の境目にあるので松長の一里塚とも、大諏訪の一里塚とも呼ばれたという。
ここは江戸日本橋から数えて31番目の一里塚である。
一里塚跡から暫く進むと街道左手に日蓮宗の光法山蓮窓寺がある。
蓮窓寺は、寛文2年(1622)沼津市下河原の妙海寺20世修善院日根上人による開創で、境内には七面堂がある。
本堂には元禄2年(1689)の釈尊涅槃図がある。
蓮窓寺の直ぐ先のカメラの浜野の脇を北に入ると突当りに神明宮がある。
この神明宮は元和2年(1616)の創建と伝えられ、3~4世紀に築造された古墳の上にある。
境内には八幡宮・稲荷社などの境内社がある。

祥雲寺 三島神社 東木戸跡 秋葉神社
東海道本線片浜駅への入口を過ぎると右手に臨済宗妙心寺派の蓬莱山祥雲寺がある。
祥雲寺は、永禄元年(1558)久松和泉守が、鎌倉建長寺より秀江禅師を迎え、菩提寺として建立したものである。
久松和泉守は菅公(菅原道真公)ゆかりの大名で境内には天神様が祀られている。
祥雲寺の隣に三島神社がある。
三島神社は永禄2年(1559)の創建で、御祭神は事代主命である。俗に恵比寿様とも称され、魚漁航海の神、また商売繁盛の神と言われている。
境内には、推定樹齢450年のマキの御神木がある。
街道を進んで東海道本線の踏切を越えると交差点右手に神明宮があり、交差点を渡った角に東木戸(見附)跡がある。
これより先が東海道原宿であり、東木戸から西木戸まで東西の距離は2.2㎞あった。
東木戸跡から少し進んだ右手に秋葉神社がある。

高木神社 清梵寺 長興寺 松蔭寺
秋葉神社の直ぐ先の変則十字路右角に高木神社がある。 高木神社の変則十字路を南に入ると臨済宗妙心寺派の得万山清梵寺がある。
平安時代の初め頃、安房の国の得萬長者が、京都からの帰路、原宿で長旅の疲れから病気で亡くなったため、従者が長者の遺言に従って大きな塚を築いて手厚く葬ったという。
その後、長者の妻が出家して梵貞尼と称して堂を建て、地蔵菩薩を安置したのが始まりという。
清梵寺の隣に臨済宗妙心寺派の海上山長興寺がある。
長興寺は白隠禅師のお寺である松蔭寺の近くにあり、白隠禅師の道友・大義和尚によって再建され、全国各地から集まって来た修行者たちの宿坊として使われていた。
ご本尊は虚空蔵菩薩で、境内には鎮守神の金毘羅権現がある。
長興寺から程なく左手に臨済宗白隠派大本山の松蔭寺がある。松陰寺は、弘安2年(1279)鎌倉円覚寺無学祖元の流れを汲む天祥西堂が開山したと言われている。この寺が有名になったのは、白隠禅師が享保2年(1717)に住職になり、全国から雲水が訪れるようになってからである。
境内には、東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の住職を務めた白隠禅師の墓がある。

雲見浅間神社 西念寺 白隠禅師生家跡 浅間神社
松陰寺から街道に戻りると、右手に雲見浅間神社がある。
社標の奥に解説の石碑があり、主神は磐長姫之尊とあり、神話のような内容が刻まれている。
雲見浅間神社の先の左手路地奥に時宗の西念寺がある。
かつて西念寺は、山門・観音堂等がある寺であったが、延宝年中(1673-80)の火災により堂宇等を消失した。
境内左には、菅原道真公をお祀りする天満宮があり、西念寺門前で生まれた白隠禅師 も幼少の頃よく参詣したという.。
西念寺の隣に白隠禅師生家跡がある。
白隠禅師の生家長澤家は東海道に面し、旅籠兼運送業を営んでおり、ここで三男二女の末子として生まれ、幼名を岩次郎といった。
早朝から水垢離を行ったという井戸が現在も生家跡に残っている。
原交番交差点を渡ると右手に浅間神社がある。
浅間神社は、甲斐武田氏に仕えた植松平次右衛門出雲守源季重が、慶長14年(1609)に創建したと云われている。
御祭神は木花開耶姫命で、境内には秋葉社・天王社・稲荷社・塞神社の境内社などがある。

高札場跡 昌原寺 問屋場跡 本陣跡
浅間神社鳥居脇に高札場跡がある。
高さは一丈、巾一間、長さ二間五尺あったと言われている。
浅間神社の斜向かいの路地奥に日蓮宗の龍守山昌原寺がある。
昌原寺の開祖は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
元和元年(1615)春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目を唱えていたことが始まりであると言う。境内には日蓮上人像・七面堂などがある
街道に戻ると、直ぐ先の中華の三元楼の脇に問屋場跡がある。
各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。宿役人には問屋、年寄、問屋代、帳付、馬指などの役人がいた、そして、道中奉行の監督の下で人馬輸送の業務に携わった。原宿には問屋のあった場所が、西町東町に各一か所ずつあって、交代で勤めたと言われている。
問屋場跡から20~30mほど先の、西家歯科医院の脇に原宿本陣跡がある。
原宿の本陣渡辺家は、阿野全成(源頼朝の弟)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。明治元年(1868)10月7日、明治天皇東幸の際、御小休所となり、昭和20年まで 「明治天皇行在所」 標柱が建っていたという。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の規模であった。

徳源寺 原駅
渡辺本陣跡の直ぐ先左手に臨済宗妙心寺派の安泰山徳源寺がある。
徳源寺は、今津寺という律宗の寺院を経て、鎌倉円覚寺開祖仏光国師の弟子賢宗が、北条時宗の帰依を受けて弘安元年(1278)に徳源寺として創建した。江戸時代には、徳川家光から寺領14石の朱印状を受けていた。境内には子安地蔵尊などがある。
本日はここで終了し、東海道線原駅に出て三島へ戻ることとした。

箱根~三島 次へ   原(沼津)~富士川